イスタンブール


本当はこんな時代だからこそ、オリンピックはトルコのイスタンブールでの開催が望まれる。

ヨーロッパとアラブの狭間にあるトルコ。

アラブ民主化の鍵を握っているトルコ。

トルコに世界の期待が集まっています。

ただ今はまだ、民主化へ試行錯誤の真っ最中で、行きつ戻りつ、きな臭さすぎます。

アラブでは、国内の対立が激しくて、

激しくないのは、石油で潤う独裁の国という、

民主化が対立を生む構造にどこも四苦八苦な状態です。

民主化は、民が育っていないと難しい。

気に食わなければ暴動を起こし、暴動が起これば軍隊で押さえ込む。

官民、お互い何かをはき違えている。

力で相手を圧倒したあと、良い結果が生まれるとは思えません。

オリンピック招致、理想はイスタンブールですが、現実では無理と考える方が妥当でしょう。

なにしろ、隣国シリアの緊張がアラブ全体を不安定にさせています。

イスタンブールでオリンピックが開催されるようになった時、

今より世界が平和になったということに思います。


2011年のトルコ大地震の際、日本からのボランティアの方が災害に巻き込まれ

一人が怪我をされ、一人が亡くなられました。

このことはまだ記憶に新しい。

その時の様子がこう書かれています。(イスラームより世界を見る 著内藤正典


政党を問わず、あるいは政治に関心のない若者たちも含めて、被災者の救援のために日本からトルコに来て、

一人が命を落とし、もう一人が負傷したことに対して、嵐のように悲嘆と同情の声が沸き起こったのです。

被災者という、困難のなかにある人を助ける行為は、言うまでもなくイスラーム的な善行です。

イスラームでは、弱者や貧しい人に対する手助けをことのほか重視します。

神が人類に示した道徳規範のなかでも、もっとも重要なものだからです。

旅人や病人、怪我人なども、もちろんイスラーム的には弱者となります。

しかし、手助けするにあたって、その意図は、純粋に善意に立っていて見返りを求めるものであってはなりません。

二人は、地震の被災者のために遠く離れた日本から救援にきていた「旅人」です。

善き意思にもとづいて、遠く離れた地からやってきて、弱者救済に奔走したのちに、自らが被災したのです。

ムスリムとして、いたたまれない思いだったでしょう。

(中略)

亡くなられた宮崎さんの棺が日本に送られる前、トルコ政府は、イスタンブールの迎賓館と

空港で政府が告別式を行い、儀仗隊が礼を尽くして棺を飛行機に乗せました。

国葬のような扱いでした。

トルコ外務省の高官、イスタンブールの県知事、イスタンブール市長が列席をしました。

イスタンブールの迎賓館には日本の国旗が掲揚されたそうです。

これは、国賓がいる場合にしかないはずですから、宮崎さんは国賓として扱われたことになります。

その飛行機が成田空港に到着すると、トルコ航空の乗員一同が整列し、敬礼して棺を迎えました。

(中略)

トルコの人びとと、政府が日本人ボランティアの対して行ったことには、ムスリムの死生観がはっきりと表れています。

人間の身に何が起きるかは、神にしかわからない。

人間が「あれをすればこうなる」というように原因と結果を結びつける合理主義的な発想で

すべて理解した気になることをイスラームは認めません。

とりわけ、最後の最後、人の生死に関することがらだけは、絶対に、

人間の主体的意志や、合理主義にもとづく因果論を認めません。

病気があったから死ぬ、致命的な怪我を負ったから死ぬことはムスリムにも当然わかります。

しかし、その人の死を前にして、因果論を述べ立てることだけは絶対にしません。

それは、残された人に、終わりのない悲しみと苦しみをもたらすからです。

宮崎さんの死に悲嘆に暮れながらも、アッラーが、御元に召されたと解釈することによって、

無機質な「原因と結果」から人を開放しようとするのです。

注目すべきは、非ムスリムの死に対しても、いささかの区別もなく、神が御元に召されたと考えている点です。

そう言われても、ご遺族の悲しみがやわらぐわけではありません。

それでも、ムスリムは、それを言い続け、そう信じるのです。

残された方の苦しみや悲しみが、エンドレスに続くことがないようにと、周囲の人びとが、みなで、

「神の御元に召された」ことを、声に出して語り続けるのです。

それがイスラームという宗教における、唯一絶対の神、アッラーに対する全面的な預託です。

この全面的預託のことを、イスラームといい、すべてを神にゆだねる人のことをムスリムといいます。

この意志が民意となって広く噴き出してきたとき、政権がそれを汲みとって政治を行えば、

イスラームの民主主義が成立することになるのです。

人にはどうにもならない悲しみがある。

耐え方のまったくわからない身の裂かれるような不幸があります。

それをすべてアラーの神に託してしまう。

そうして耐えようのない苦しみを受け入れ、必死に生きている姿が映ります。

これがムスリムです。

ムスリムであるトルコ国民の悼む気持ちを、政府は汲みとりすぐ形にして表した。

日本に対しての配慮でなく、ムスリム国民に対して出来る限り気持ちを添わせたように思います。

シリアのアサド大統領にはこんなことは出来ないでしょう。

イスラムでも派が違うので、国民の気持ちを汲み取ることはしない。

ただ、シリアの最初のデモは、国民がアサド政権の腐敗を糾弾し、正すよう始まりました。

打倒アサド政権ではありませんでした。

それが様々な利害の人の手にわたって、政権を倒す話になってしまいました。

安倍総理がアサド大統領に退いて欲しいと言っていましたが、

確かにここまでの混乱にしてしまった責任はアサド大統領にあります。

民主主義の国からみれば自ら身を引くのが当たり前です。

だからといって、やめたら過激派がのさばる懸念があります。

その時、安倍総理が何か出来るのでしょうか。

どちらが勝つことも、その後を考えると支持は出来ません。

トルコがアラブ民主化のリーダーとして、

いつかイスタンブールでオリンピックが開催されることを夢みときます。

日本にしても、イスタンブールにしても、マドリードにしても、五輪招致は無責任すぎないかな(汗)