アーサー王物語
- 作者: トマスブルフィンチ,Thomas Bulfinch,大久保博
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1993/01
- メディア: 文庫
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ギリシャ・ローマ神話を書いたトマス・ブルフィンチのアーサー王物語。
中世イギリスを舞台にした伝説のアーサー王と円卓の騎士たち&魔法使いの愛と冒険の物語。
日本の武士道はかっこいいけど、騎士道もかっこいい。
武士道と騎士道は、美学的にはほぼ同じかなと思うのだけど、
微妙に違う。
騎士道は、母体がキリスト教で、
弱気を助け、己の身を正し、まぁ清く正しく美しくなんだけど、
それと比べて武士道はストイックで武骨だね。
女などにうつつを抜かしてたら笑われる。
騎士道は、一番に守るは、弱者であり女性であり。
女性の祝福を受けるために戦ってるようなとこある。
愛する人を一番に守らず何のために生きるか・・・って感じなのかな。
武士道は、それと比べるとストイックだ。
愛より己の使命が第一。
アーサー王物語読むと、
騎士たちは年中冒険に出ている。
冒険というのは、試練を求めてあちこち歩き回ること。
困ってる人がいたら助ける。
道端で、騎士と騎士が出会えば、そこで必ず戦いをしなければならない。
強い者を求め、戦いながらスキルを上げていくんだろうね。リアルRPG。
現代人に無い強さだな。
騎士は、打ち合いの最中に相手が剣を落としたら、拾うまで待つ。
勝つことより、対等勝負であること、誠実であることを名誉とする。
最後まで仕留めるかどうかは、ケースバイケースで。
お互いの力を認め合えば、友情が芽生えたりする。
そこで武術向上と共に人格形成がなされていくのだと思う。
第三者のジャッジはないのだから、お互いの倫理観の中で真剣勝負が行われる。
ゴルフはイギリスが発祥だけど、この精神が生きている。
ジャッジがいない。
お互いのフェアプレーが前提になっているから、
自分自身がスコアをつける紳士のスポーツといわれている。
ここで思ったのだけど、
『チョークを投げるのは体罰です』
本当は、こういうことは、すべてケースバイケースだと思う。
その時その時で違う。
でも、人は秩序と安定を求める。
それは、自分ひとりで確立出来るものでなく、他者の承認が必要となる。
それで基準を設けるわけなんだけど、
基準を設けるとしたら、どうしても一括りにするしかない。
『チョークを投げるのは体罰です』
こんな規則、ケースバイケースが根底にあるイギリスではありえないと思う。
もちろん、ヨーロッパでも今じゃ騎士道なんて精神はどっかいっちゃってると思うけど、
それでも、ここまで一括りにする考え方はないと思う。
イギリスは何故ジャッジ無しで戦えるかというと、『神』という絶対的な審判がいるからかもしれない。
自分にとっても他者にとっても絶対の存在『神』
日本には絶対主がいないから、ジャッジにすがる。
時代が変わり『科学』は『神』を否定するものとして、とって代わるかに思えたけど、
今、科学は逆に人間が制御出来ないものとして疑問視されつつある。
そしてまた『神』や『原理主義』に戻ろうとしている。
人間はいつも彷徨っている。
それは、どの道を進んでも、行き着く先に完璧な世界などないからだと思う。
完璧な世界などあるわけない。人間が完璧ではないのだから。
システムばかり完璧目指しても、人間が完璧でないから、社会主義は失敗した。
社会主義の失敗は、けっこうショックだったと思う。
脳の中での理想郷に過ぎなかった。
結局は、理想郷がある、理想郷を作れると思った人間自身の過信、慢心、でしかなかった。
脳が生み出す人間像と、実際の人間は違う。
なんだか、話が飛んでしまったけど、
人間は弱いから、安定や秩序を求める。
人間は弱いから、文字や言葉、証拠にして安心したがる。
でも、実は絶対の安心など本当はどこにもない。
婚姻届出したって、愛は冷めるし。
そこを問い詰めてもどうしようもない。
人間が不完全なのだから、社会も不完全。
それを踏まえた上で、
人間同士ぶつかり合うのが当然で、いかに道を譲り合えるか。
勝った人間より、相手が剣を拾うまで待てる懐の深さが真の強さに思うけど、
『チョークを投げるのは体罰です』
こういうことを持ち出さなければならないほど人間は弱く、哀れさえ感じる。
ジャッジのない場で他者とどのように向き合っていくか、
それを学ぶのが本来学校であるはずなのに、やはり理想は理想のままなのかな。