死刑執行人サムソン



死刑執行人サンソン ―国王ルイ十六世の首を刎ねた男 (集英社新書)

死刑執行人サンソン ―国王ルイ十六世の首を刎ねた男 (集英社新書)

タイトルもすごいが、中身もすごい。

どっからどう感想を書いたらいいかわからない。

フランス国王ルイ16世の死刑を執行したサンソンの生涯。

国王が世襲であるのと同様に、この時代死刑執行人も世襲で、

非人間、人間のうちで一番最低のランクとみなされていた。

終生、人の死にかかわらずには生きていけなかったサムソンの思い。


この時代にギロチンが発明された。

それも人道的配慮のために発明されたということは、それ以前の死刑執行がどれほど凄惨であったか、

当時は、公開処刑を市民が娯楽として眺めていたというのだから、人間は元々が嗜虐性があって、

文化的生活、知性、理性、そして法で、今はその性質が押さえ込まれていると考えた方がいいのでしょうね。

そもそも人間がなんの間違いもおかさない生き物ならば法などいらない。

そしてその間違う人間が法を作り、裁いているのだから、法の裁きにも間違いがあってもおかしな話ではない。

こういう話をすると、堂々巡りになるだけだけど、

うっかりすると、人間は正しくて当たり前のような社会に飲み込まれ、人間がなんだったかを見失う。


ある処刑人の、拷問から処刑が終わるまでのことが、事細かに書いてある。

すべてが終わった時には褐色だった髪が真っ白になっていたという。

その苦痛の与え方は常軌を逸してる。

この本は相当にむごたらしいことが書かれていますが、きれい事ですまされない生命に繋がる非常に貴重な物語で、

嗜虐的なことを興味本位で書いているのではないです。

君主である国王の命でサムソンは死刑を執行する。

自分の仕事に対する正当性を自分で確信し続けなければ死刑執行などやってはいられない。

その正当性の主である国王の有罪、死刑が確定した。

サムソンにとって、自分の唯一の正当性が粉々に打ち砕かれ、

先代たちの人生もすべて一切が否定されるような衝撃だった。

しかも、愛し、信じていた国王をサムソン自身が処刑しなければいけない、

こんなことあってはないらないし、あるはずがないと最後の最後までサムソンは信じていた。

フランス革命は最初は、憲法を変え、国王と国民が一丸となれば国はよくなるという

希望に満ちた、楽観的ムードだったという。

誰も、王政を倒そうなどとは、夢々考えてもいなかった。

現在フランスで死刑が廃止された経緯には、

人間は過ちを犯すものだという絶対的な前提があるのかもしれない。


私は先日このブログに死刑には賛成である旨を書いた。

死刑が犯罪の抑制に繋がっているので、死刑を廃止するのは怖いと。

これはよく考えると、私の防衛反応「やられる前にやってしまえ・・・」の発想で、

やはり理性より感情で私は考えている。

それと、残忍な犯人には「命をもって償え」これも私の感情論。

私の中の嗜虐性も含めて、感情から導き出された判断が絶対的に正しいかといえば、

これはもう1人1人違う。

『死刑が犯罪の抑制になるという意見があるが、むしろその反対だ』と、確かロベスピエールの言葉があった。

私はその意味が全くわからなかった。

でも、だんだんと、わかってきた。

死刑は、国が『事情があれば人は人を殺しても仕方がない』という大いなる前提を掲げている。

命は、あるか無いかの2つに1つしかない。

事情いかんの問題でなく、

人が人を殺すことがこの世で許されるかどうか、そこにしか争点はない。

感情論では但し書きがあっても、人間の命の重さに但し書きは無い。

人は理性より感情が先に立つ。感情の方が正しいと判断されるのかもしれない。

感情論で「こいつは死刑だ!」と言うのは自然な感情だとしても、

では、そうジャッジ出来るほど絶対的な、なにひとつ間違えを犯さない人間、

100年先、未来永劫、その判決は正しいといえるジャッジが出来る人間が存在するのか。

少なくとも、過去の歴史に『誤りの死刑』はあった。

フランス革命の何千人の死刑は、ほとんどが死罪にあたいするとは思えない。

死刑が行われているということは

自分の家族の誰かが、そのスイッチを押しているのかもしれない。

法により、殺人を強いられる人間を生み出していいのか。

サムソンは死刑執行人だ。

でも平気で人に手をかけていたわけではない。

苦悩し苦悩し、終生『死刑廃止』を願っていた。


多分死刑制度は間違っている。

だけど「極刑を望む」は、感情として断ち切れない。

感情は、物事のジャッジを誤ることがある。

それが今私の思うすべてで、これ以上はわからない。