少年とアフリカ


坂本龍一天童荒太の対談。

坂本「自分の子どもが殺されたら、僕はやったやつを殺しに行く」

天童「僕には、やっぱり、殺すことはできないと思う。なぜなら−」

これがテーマだったわけでなく、2人が好き勝手話しているうちに、

この話になり、他の話もしているのだけど、結局はこのことが、この本の底に流れているように思う。

坂本「殺せなかったら、そいつをサハラ砂漠まで連れていって放り出してくることにしよう。」

天童「あっそれはいいですね(笑)」

坂本「そうだ、「自分の力で生きろ」と言って放り出そう。

自分のやったことを考えながら、サボテンを食って、ヘビを食って、サソリを食って生きろ、と。

そこで死ぬんだったら、しょうがない。生きるんだったら、一生かけて犯した罪の重さを引き受けることになる。

それが嫌なら、餓死しろ、と追い込む。」

天童「僕はそのほうがいいな。」

坂本「すぐ殺しちゃったら面白くないし。」

天童「相手が後悔や、命への慈しみもなにも感じないで死んでしまうんじゃ、かえって納得できないでしょうし。

でもそうやって追い込んだ坂本さんのほうも一生、罪と悲しみを背負っていくわけですよね。

命って、それくらい重いのに。」

罪と赦しは、考えても考えても答えが出ない。

だから考え続けなければいけないことに思う。

2人の対談の中で、

日頃あまりにもTVで死者の数を当たり前のように流すので、人々が死に対して麻痺しているという話が出てきた。

なるほど。

伝える方も、受け取る方も、

人々の関心は、事件性(死に至る過程)にあって、死そのものにあるわけではないのかもしれない。

だから、同じことが繰り返される。

映画『ホテル・ルワンダ』、あれはいたたまれない。

1990年、フツ族ツチ族の民族紛争。

民族といっても同じ国の昨日まで隣同士だったり、同じ会社だったりした仲間同士。

100万人の大虐殺が行われた。

この紛争の凄惨さは、武器が中国から輸入された1個1000円にも満たないような安価なナタであったこと。

それで過激派フツ族ツチ族の身体のありとあらゆる所をぶった切った。即死じゃない、ナタで切り刻んでいった。

また、この紛争で強姦され生まれた子供は1万人以上といわれている。

この映画の中で、アメリカでこの惨劇を放送されることを知って

「これで、世界が自分たちを助けにきてくれる」と喜ぶのですが、アメリカの報道記者は、

「誰もがこの映像をみながら可哀想ねと言い、でも自分たちの食事を続けるだろう・・・」と苦しげに答える。

この映画で一番言いたいところはそこだと思う。

国連もアメリカもどこも動かなかった。ルワンダには資源がない。

応援に行っても費用がかかり、自国の兵士が傷つくだけで一文の得にもならない。

だから内政不干渉をタテに世界が無残にも見捨てた。

何が起こっているか知っていながら、100万人を見殺しにした。

(この時もフランスが絡んでいる。アフリカにおけるフランスは微妙で今もアフリカでは緊張が続いている)

話がそれたけど、

人は事件事故には心を傾けても、第三者の死には疎いものなのだと思う。

私は母が交通事故で亡くなったあと、ニュースが見れなくなった。

『事故』『死』の言葉が流れてくると、一瞬で心臓が凍る。イヤだイヤだ。耐えられない。

心的外傷ストレスというのかな。

それが治るのに、いや、今でも完全には戻っていないけど、

ニュースがみれるようになるのに10年以上はかかった。

いつもTVの向こう側にあった死が、TVのこちら側にきてしまった。

他人の死さえ、自分の傷みとなってしまった。

救急車の音にも怯えた。

今なら、神経内科をすすめられるのかもしれないけど、それは大きなお世話だ。

受け入れられるようになるまで時間はかかった。それでも私は自力で立ち上がってきた。

他人であれ、自分であれ、人間を見くびってはいけない。

人は絶望する、絶望するけど必ず立ち上がる力ももっている。私はそう信じている。

苦しみから抜け出すのに時間がかかるのは当たり前で、他の誰かが代わりに背負えるものでもない。

その時間で人生を無駄にしても、それも人生と思わなければいけない。

何かを失う代わりに必ず何かを得ている。それが自分だけの光。それだけでいい。

母の日には学校でみんながカーネーションの話をしている。それはうちは仕方がないことだけど、

周りがそのことにフっと気づき、口を閉ざした時が嫌だった。

でも、そんなことには耐えていくしか仕方ない。

というより・・・

死んだら白いカーネーションというのは、身震いするような発想だ。

子どもがお花屋さんに行って「白いカーネーションください」って言うのかバカ者。

無しでいいよ!無しで!

ヘンテコな配慮が多いです。世の中。

世の中には母のない子、父のない子などいくらでもいる。

母の日、父の日が、地獄の子たちが大勢いる。それにまったく気づかない大人もいる。

多くの人が何かしらの傷を背負ってる。TVでは流れてこない数々の苦しみをグっと堪えて生きてる。

私は自分からあけましておめでとうも言えない。

言われれば言う。

怖い。相手の心の中がおめでたいかどうかもわからないのに、勝手に決めつけて言うのが怖い。


人は救おうと思って救えるものではないと、人はしっかり考えておかないと、

ときに傲慢になるし、傷ついている人をかえって追いつめることにもなりかねない。

人にできるのは、傷ついたり苦しんでいる人に、その傷は痛いですよね、

全部は無理でしょうけどわかりますって、心から伝えてあげることだと思ってるんです。

それだけしかできないけど、それができるだけで、この世界は確実に寛容さを増すと思うんですね。

決して救ったりなんてできないけど、受け止めて寄り添うことにこそ人間の善なるきらめきがある


人間は他の動物と違って、自分の体を進化させずに、道具を使って工夫したり、

美しいものを生み出すことを覚えた。

あまつさえ、それを楽しむことも覚えた。

だから頑張れるし、頑張ってしまうんですね。

ただ、それは生き物として強いことかというと、そうじゃないと思う。


いずれにしても人間は自分でつくった物語、幻想のなかで生きているわけですからね。


他人とコミニュケーションをとるのは簡単なことじゃないし、

人間関係などという、他者が相手のものは、思うようにいかないこと、

うまくいかないことが自然だと、僕は考えているんです。

びくびくしてるのはおかしいと思わせるような、今の洗練されたーと思い込んでるー社会のほうが、

異常なんですけどね。


地平線を眺めていて思ったのは、地球の自転のスピードがこんなにも速かったのか、ということ。

日の出から夕焼けまで、太陽の位置がどんどん変わって、どんどん空の色が変わっていく。

みるみる変わっていく。

夜になると一面の星空になって、その星が太陽と同じスピードで動いているのが肉眼でもわかる。

ああ、こんなに速く動いているんだなっと思った。

最初、自分の子供を殺した相手は絶対殺す派だった坂本が、この本の最後では

「殺さないかも・・・」と変わってきた。

それは相手を許すわけでなく、命に対する『畏れ』。

それは、人間の能力の限界で、言葉で表現は出来ないけど、と。

言葉の抽象性、音楽の抽象性、どちらにしても定義などないもの。

坂本と天童がどんな作品を生み出していくのか楽しみで、また自分がそこから何を受け取れるかが楽しみです。