ルソーとヴォルテールの覚書



フランス文学案内 (岩波文庫)

フランス文学案内 (岩波文庫)


フランスの文学史には、純粋な文学者ばかりでなく、科学者や哲学者なども

数多く名前をつらねております。

これは、作者の取り扱う問題が科学的なものにせよ、哲学的なものにせよ、

これが人間存在の究明と不可分のものである限りにおいて、

また、それが美しい言葉、快い表現で綴られている限り、

文学作品と考えられるからであります。

 わたくしたちは、フランス文学の特質を述べるに際して、

それは人間が人間のために人間を研究する文学である、と申しました。

このことは、フランス文学が人間とその性格、生態、生理・・・・・

のみに関心をもつという意味だけではありません。

人間が大自然の中にあって、どんな驚き、どんな喜び、どんな悲しみ等の感情を味わうか、

さてはまた、自然界にある動物や植物や鉱物などから人間がいかなる感銘を受け、

また、いかなる反応を示すかというような点にまで、いいかえれば、

人間の内部のほかに、人間をとり巻き、人間を動かしている外界にまで、

フランス文学は深く広い関心を示すという意味であります。

18世紀啓蒙時代のルソーとヴォルテールの対比。


ヴォルテールとルソーは、あらゆる意味で対照的である、といわれております。

この二人は、ただ外から見て対比されるばかりでなく、

文明に対する観念において、また人間社会というものについての観念において、

いちじるしく異なった面をもっています。

 ヴォルテールのほうは、あくまでも文明の進歩を信じ、人間の理性によって、

日ごとに文明はよりよくならなければならない、と説いております。

一方、ルソーのほうは、いまの時代の文明はよくない、

もっと昔の自然のままの人間のほうが、真の人間らしい生活なり制度なりがあったと考え、

現代を否定して自然の状態を回復させよう、と主張したと申してよいでしょう。

また、ヴォルテール人間性を悪と見て、その愚かしさを軽蔑し、この世の中は、

ただ我慢できる程度にしかつくられてはいないけれど、

理性と知性のおかげで、われわれもある程度の幸福には到達し得ると考えます。

したがって、彼は社会の進歩と改良のためには、いつでも働こうというのです。

ところが、ルソーは、その反対で、人間性を善と見ながら、実際生活では、

人々から迫害され、孤独な人としてその生涯を終わっております。

さらに、ヴォルテールは、理性の原理と教会の原理との間には、

和解はありえないと感じており、したがって、

あらゆる機会をとらえては教会を激しく攻撃しますが、

社会の基礎そのものを変えようとは考えない、いわば市民(ブルジョワ)としての立場を守っております。

これに対し、ルソーは、人間の良心と感情とをもって、無神論からキリスト教を守ろうとしながらも、

その主張するところは、ヴォルテールよりもはるかに革命的で、小市民や農民の立場を代表しておりました。

18世紀におけるヴォルテールとルソーは、それぞれの立場から複雑な人間現象、社会現象を探求したわけです。

このような相矛盾し、相反する二つの精神や潮流が、フランスの文学の歴史をつねに貫いており、

おそらくは現代までも続いているのではないかと考えられます。


ヴォルテールリスボンの災害についての詩 ”すべては善なり”というオプティミスムの公理の検討」


 "すべては善なり"と叫ぶ迷妄の哲学者たちよ、来りて見よ、この廃虚、残骸、屍を。

手足は千切れ、石の下に折り重なる女子供。

何万という不幸な人々が、血を流し、引きさかれ、屋根の下敷きになって、

ヒクヒク動きながら、あわれ、責苦のうちに最期をとげるのだ。

 これでも諸君は、自由にして善なる神の永遠の掟の結果だというのか。

神の復讐はなれりというのか。母の乳房の上で血にまみれる嬰児が何の罪を犯したであろう。

 リスボンは、快楽にふけるロンドンやパリよりも多くの悪徳をもったというのか。

リスボンは潰滅し、パリでは踊っているのだ。

 厚顔無恥なる傍観者よ、諸君は同胞の難破をながめて、平然と嵐の原因を説く。

そしてすべてほ善なり、必然なり、よりよき運命を望むのは倣慢だという。

だがテージョ河の岸辺へいって、瀕死の人々にきき給え。

 "天よ、助け給え、人間の惨めさをあわれみ給え″と叫ぶことが果して倣慢であるかどうか。

全智全能の存在があの忌わしい風土に人間を住まわせねばならなかったというのは、

すなわち神の能力を制限し、神の仁慈を禁じることではないか。

 わたしは謙虚に、神にそむくことなく、この硝煙を吹きあげる業火が砂漠の奥で爆発していたならと願う。

わたしはわたしの神を敬うが、世界を愛する。

恐しい禍をなげいたとて、人間は決して倣慢ではない。人間は木石ではないのだ。

 テージョ河の岸辺のあわれな住民たちは、恐怖と責苦の中で、

誰かに次のようにいわれれば、心を慰めるであろうか。ー

 "安らかに死せよ。世界の幸福のために君らの住家はこわされるのだ。

他の人々の手が君らの宮殿を建て直し、他の民族が君らの城壁の中に生れるだろう。

北の国(イギリスのこと) が君らの損失で肥るだろう。

神の眼からみれば、墓の中で君らを喰ううじ虫も君らも一視同仁なのだ。"

 何という恐しい言葉だ! 残酷な人々よ、わたしの苦悩を侮辱しないでほしい。

わたしの不安な心に、その確乎不動の必然性の法則を見せつけないでほしい。

 公正なる主の下にあって、われわれは何故苦しむのか。ー 

これが問題の核心なのだ。諸君はこの事実をあえて否定することによって、われわれの苦患をいやそ うというのか。

全能者の子でありながら、悲惨の中に生れたわれわれは、共通の父に手をさしのべているのだ。

陶磁器ならば、もちろん作者に何もいわぬ。だが わたしは生きているのだ。

わたしは感じるのだ。しかるに、ー

 "この不幸は他の存在の幸福だ″と諸君はいう。血まみれのわたしの屍体から無数の虫が生じるだろう。

わたしの苦しみが死によって極まる時、虫に喰われるとは、結構な慰めだ!

 禿鷹はかよわい獲物を襲い、それを喰って満足する。だがやがて鋭い鷲の爪にとらえられ、

その鷲もまた人間の銃弾にたおれる。そして人間は戦野に屍をさらし て、貪欲な鳥どもの餌食となる。

これをもって諸君は、各存在の不幸は全般的な幸福をつくるというのだ。

何という幸福だ! 諸君は"すべては善なり″と叫ぶが、世界の現実はそれを裏切っているではないか。

 地水火風、動物、人間、すべてが戦っている。たしかに、悪は地上に存在するのだ。

だがその根元はわれわれにはわからない。悪はすべての善の造主から来たのか。……

  善意そのものなる神が、愛する子供たちに恩恵をほどこし、かつ禍をふりそそいだとはどういうことか。

いかなる眼が、神の思召しを窺知しうる町か。完全無欠 な存在から悪は生れるはずはなかった。

その他のものからも由来することは決してない。

なぜなら神のみが主であるからだ。されど悪は存在する。ああ、何と悲しい真実か!

 人々が理屈をならべている間に、リスボンは地下の劫火にのまれ、

テージョの岸辺からカディスの海にいたる三十もの町々が潰滅した。

人間は生れながらに罪あるもので、神がこれを罰するのか。

あるいは実存と空間の絶対的支配者が、なさけ容赦もなく、その最初の命令を貫徹しているのか。

あるいは未定形の物質が、その主に反逆して、必然的な欠陥を包蔵しているのか。

あるいはまたわれわれほ神の試煉をうけ、この束の間の現世は久遠の世界への狭い通路にすぎないのか。

 われわれの知るものは何もなく、恐れぬものは何もない。自然は黙している。

問いかけても無駄だ。われわれは人類に話しかける神を欲するのだ。

おのれの所業を説明し、弱者をなぐさめ、賢者を照らすのは、神のみのすることだ。

 人間は、疑惑と誤謬の中に打捨てられ、せめて支え与る葦草をもとめても空しいのだ。

可能なあらゆる世界の中でもっともよく組織された世界において、何故に この永遠の混沌と悪があるのか。

無垢?なるものも、罪あるものも、何故ひとしく災禍を蒙らねばならないのか。

ライプニッツは何も教えない。

 人間精神の莫大な能力も、一体、何ができるのか。運命の書はわれわれの眼に閉ざされている。

わたしは何ものなのか、どこにいるのか、どこへゆくのか、またわたしはどこから来たのか。

 われらはこの土くれの上に苦しむ微粒子なのだ。死にのまれ、運命にもてあそばれる。

だが考える微粒子だ、その眼は思考に導かれ、天空を測った。

われらはわれらの存在を無限のかなたへ投げあげるが、一瞬もわれら自身を見ず、また知ることもできぬ。

 この傲慢と誤謬の舞台は、幸福を語る不幸者にみちている。誰もが福祉をもとめて欺き、呻いている。

かくては何人も死ぬことを欲せず、また何人もふたたび生れ変ることを欲しないであろう。

 苦しみに捧げられたわれらの人生において、時に、われらは快楽の手で涙をぬぐう。

だが、快楽は影のように消えうせる。われらの悲しみ、悔恨、われらの損失は数知れぬ。

過去は悲しい思い出にすぎず、現在はおそろしい、もし未来もなく、墓場の闇が考える存在を滅ぼすならば。

いつの日かすべては善となるであろう、これがわれらの希望なのだ。

今日すべてが善である、というのは幻想にすぎぬ。

ヴォルテール著の『ザディーグ』と『カンディード』の結末の違い、

『ザディーグ』では、苦難の末、絵に描いたような幸せがあり、

カンディード』では、苦難の末、限りない幸せは指の間からこぼれ落ちていったが、

ささやかな畑を耕し、未来に希望をみる。

この結末の差は、この間に起こったリスボン地震が大きな影響を与えている。