天然日和
「所有したいと思ったとたん、それに支配される」
執着している人ほど、結局支配される。
そして、「おおよそ何かを所有して意のままにあやつりたいと思った瞬間から、
その対象物に自分は所有されてしまう」
まったくだ。
物でも、恋愛でも、お金でも。そして自分に対しても。
『自分はこうあるべき』というのも、肉体的なことも、観念にしても、自分への支配。
自分は若く美しくありたい、
自分は清く正しくありたい、
どちらも同じ、支配するつもりが、支配されて、自分を苦しめたりもする。
私は、比較的、執着心に乏しい方かもしれない。
いい意味でも悪い意味でも。
どうも、薄らぼんやり・・・・・
これが世間一般の私への評価なんじゃないかと、そして自分自身でも思う。
物事のあきらめ方が上手いというか、要は鈍感なのだ。
それでも、自分自身を見渡せば、手放してしまえば楽になるものが、いっぱいある。
疲れたと思ったら、何か1つを捨ててみよう。
石田ゆり子の本はどこを開いても、自分の感性と似ていて心地良い。
柔らかな声で、私の心を語ってくれているようで嬉しくなる。
表紙を眺めただけで同調出来る。そういう本は珍しい。
言葉でなく、絵だから余計に同調出来るように思う。説明がいらない。
言葉はどうしても足りないから野暮になる。
柔らかなスリッパと素足の心地良さ、部屋に雑然と積んだ本、風鈴の音色と風の匂い、
お気に入りの食器で楽しむコーヒー、そしてチクチク刺繍、
生活の中の大事にしているモノ、好きなモノ、心地良いモノを描いたら、こうなった♪みたいな気取りの無さ。
五感で生きてるのが伝わってくる。
嬉しくて、この表紙を指で何度も撫でてしまうのは、愛おしさかな。
そして何より、モビール。
モビールというのは、バランス。
バランスを図るのはものすごく難しくて、でも糊で固定してしまったら、そこにはなんの美しさもない。
心も身体も常に不安定なんだけど、でも一本芯がシッカリしていれば、ユラリユラリの不安定さも美しい。
肝心なのはぶれないことでなく、ぶれてもいいと認めること。
この本は、表紙絵だけで、私に色んなこと語りかけてくれる。
唯一、「私と違う」と感じるのは『色づかい』
芸術的なお仕事を選ぶ人は、色もすごく個性的なんだなと思った。
私は無意識に無難な色目を選んでしまう。自信の無さかな。
そうだ。私は、今の、弱い小さな自分から目をそむけているのかもしれない。
こういうときもある。これも自分。大丈夫。きっと晴れる。
そう思えることがどんなに大事だったか、忘れていた。
今の状態から這い上がることばかりに気を取られて、必死になって。
情けなかった。と、同時に、とても嬉しかった。
探していた大事なものをみつけたような瞬間だった。認めるということ。
それは許すことかもしれない。
そして許すことは手放すこと。執着しながら許すということはあり得ない。
大自然や、植物や動物たちの中に、私は「許す」という言葉の意味をみつける。
批判せず、ありのままを包み込んで、消化し、再生する。
ただ黙って、止まることもなく。
植物のように。一輪の花のように。
飾らず、比べず、ありのままでいたい。
そんな風でありたいと、切に願う、ただの私
私は「まろやか」で「凛」とした、とう表現が好きだ。
そういう表現が似合う女性を見ると、ああ、私もああいうふうでありたいなあと思うし、
考えてみると、物に対しても同様のイメージを求めているような気もする。
あくまで無意識、だけど。
ただの「凛」としたでは、何だかだめなのだ。
「まろやかな」という、どこかつかみどころのないオーラのようなもの。
それがないと、ポキッと折れてしまいそうで。
触覚でそれを満たしてくれるもの・・・・・。
よく手入れの行きとどいた、艶があって柔らかい髪の毛とか。
内側から光を放つような、肌とか。
あと。真珠。パール。
どんなに辛口にしても、絶妙な割合で「甘く」なるものたち。
それは、女性ならもともとがそういうものかもしれないけれど、でも、感触のとおりに、
少しづつでもなっていくとしたら。
きっとこれは、無意識であれ、日々、鍛錬したものの圧倒的な勝利のような・・・・・気がする。
肌さわりに敏感な人、が美しくないわけがないように思う。
自分が心地よいと感じる感触を、できる限り、追求してみたい。
そしたら、きっと、心地よい自分に、なれるはず・・・・・。
そんなふうに思う。
女優石田ゆり子は、ほとんど知らない。
この本の中の石田ゆり子は、写真もスッピンで、心もスッピンで、それがとても美しい。
心が堅くなったと感じると、この本を開く。
どこのページにも「無理のないしなやかさ」がある。こちらの心までしなやかになれる。