考える


相変わらず眠くなりながら『西洋哲学の10冊』を読んでいる。

そして思う。

答えを求めて読むのは違うな。と。

いや、本全般、世の中全般、そうなのだけど。

『生きるとはこういうことです。死とはこういうことです。』と、

疑問がなんでも解決出来て、それを上手く言語に出来たらスッキリするけど、

本を読んで回答があると思うのは、自動販売機の回路と一緒。

100円入れてボタンを押せば、ジュースが出てくる。

ジュース1本が、どうやって作られるかわからないけど、

ジュースがそんな簡単に飲めるから、見誤る。

自動販売機に頭を下げて感謝することもないし、

自動販売機と対話がなくても100円さえ入れたら、ジュースが手にはいる。

でも人に関してはそんな単純な回路はない。

ニーチェツァラトゥストラはこう言った


すべての書かれたもののなかで、わたしが、愛するのは、血で書かれたものだけだ。

血をもって書け。

そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。

他人の血を理解するのは容易にはできない。

読書する暇つぶし屋を、わたしは憎む。

読書も、簡単に自動販売機方式になりうる。

自ら汗を流し、土を耕し、

ジュースは、農家の人から直接、丹精込めて育てたミカンの話を聞きながら買う。

それならば血が精神と言えるだろうし、

人の書いたものをなぞっているだけでは、自分の脳を使うことを忘れる。

使わない筋肉は、動かし方がわからなくなる。これは自分の身体で立証済み。

使わない脳も、多分、働かせ方を忘れる。

攻略本でゲームを進めるように要領よく人生を送っていたら、主体が誰だか、誰の人生だかわからない。

マニュアルに無いアクシデントに遭遇した時、対応出来ない。

危機管理という言葉を最近耳にするけど、

管理出来ない不測の事態が、危機なのではないかな。

マニュアルも結構だけど、なんでもかんでも管理出来ると思うのも、どうかしてる。

世の中には人知の及ばないものがあると思うよ。

マニュアルでしか動けない人間を製造することが危機にもなりうる。


本のよいところは、課題をもたされることかもしれない。

私の場合、読めば読むほど課題だらけになっているので、それはそれで問題でもあるのだけど。

もうちょっと熟読していかないと、読み散らかしているだけで、

釣った魚の名前もわかりません。食べません。その辺に放置。

だいたい、魚を釣ったのか、長靴を釣ったのかもわかってない。

これは、徐々に改めていこう。


驚いたことに、3度目のバイロンが出てきた。

一週間で3度もバイロンと出会った。

これはどんな縁なのかな。

1度目は、知人からのメールで『そなたの為に世界を失ったとしても、世界の為にそなたを失いたくはない』という格言を知り、

2度目は、自由民権運動の話で『バイロン的詩人派』というメタファーを目にし、

3度目は、ラッセル『幸福論』の解説の中で『バイロン風の不幸』とあった。

あちこちで引き合いに出されているということは、それだけ多くの人が心にバイロンをもっているということ。

私の中にバイロンはいない。


ありがたいことに、この本ではバイロンの説明を詳しくしてくれてます。

さすがジュニア向け新書。感謝。

バイロン風の不幸』とは、ペシミズム(厭世主義、悲観主義)にとらわれた不幸のこと。

(実際は、バイロンは自分の不幸を誇りにしていると、ラッセルは言っている。不幸が誇りなら、それはすでに不幸ではない。)

ふむふむ。太宰みたいなものか。

でも言われてみれば、『不幸を誇り』・・・ってあるな。

不幸も幸福になりえてしまうんだから、人間の精神構造は複雑すぎる。

文字にすると単純だけど、人間は常に何億通りもの中から瞬時に判断している。

病院の待合室で、朝から元気に病気自慢をしているお年寄りは、

誰かに話すことで不幸を少しでも幸福に変えようとしているんだろうな・・・と、

人は無意識のうちにも、常に不幸を幸福に摩り替える手段を講じてる。

自分をいかに守るか24時間体制で監視システムが働いているのかもしれない。

「1番よいのは生まれないこと、2番目によいのは生まれてすぐ死ぬこと。」

究極のペシミズムは、そんなとこだけど、私もそれに同意してしまうとこある。

厭世主義(主義というほど確固たるものではない)なのかもしれないけど、でも悲観主義では無い。

自分が不幸だと思ったことはないのに、厭世的な部分があるのはなんでなんだろう。

貧困の国、食糧難の場ではダイエットする人がいない、食べ物がある所にダイエットは発生する。

それと同じようなもんかな。

子供の頃から運命としては、恵まれている方だと思う。

だけどやっぱり生まれてきて良かった。とは思えない。

芥川龍之介の小説『河童』中で


お産をするとなると、父親は電話でもかけるように母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生まれてくるかどうか、よく考えた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。

と、あったっけ。

胎児は、

「僕は生まれたくはありません。第一僕のお父とうさんの遺伝は精神病だけでもたいへんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じていますから。」

芥川は何をどう思いながら書いてたか・・・・・

地球上の人間以外の生態が、人間を善か悪かで判断したら、果たして善と言ってくれるのかな。

で・・・・・

なんだっけかな(笑)


そうそう、哲学書というのは

哲学者があれこれ言ってることを『これはどうなのかな?』と、自分に問いただすこと。

肯定でも否定でも、自分の頭で考える。

哲学とは対話だという。異なる意見の相手と、とことん話しあって理をつめること。

日本では哲学は流行らないな。

「異なる意見の相手とは相手をしないこと!」となるのがオチだ。

自分自身の中での対話は出来る。

でも部屋にこもってひとりブツブツやっていたら、周りからオタクといわれるのがオチ。

どうも哲学の育つ土壌が無いな。

ともかく、

私は世界に1人の私として生きる。

足りない脳や拙い経験で失敗の方が多いとしても、社会に流されることなく自分の頭で考えよう。

結果に捉われる事なく伸び伸びとやっていこう。

足りない頭と足りない言葉でもそれが自分であることを感じながら。

『西洋哲学の10冊』(岩波ジュニア新書)無事読み終わりました。