親鸞
下巻、読了。
「ひとつ、ききたい。
そなた、念仏すれば浄土に往生できると本当に思うておるのか」
「わたしは浄土にはいったことがありません。ですから、師の言葉を信じるしかないでしょう。
信じるというのは、はっきりした証拠を見せられて納得することではない。
信じるのは物事でなく、人です。
その人を信じるがゆえに、その言葉を信じるのです。
わたしは、法然上人をひたすら信じている。
ですから、そのかたの教えられるとおりに念仏して、浄土に迎えられると信じているのです。」
「では、そなたはなぜ法然を信じるのだ」
「法然上人が、わたしを信じてくださっているからです。
わたしのような者を、しっかり信じてくださった。
だからわたしも法然上人についていくのです」
そうか・・・
神や仏を信じるというのは、
その実、人を信じていることなんだ。
神や仏や教義が人間に直接「信じなさい」と語りかけたわけではないのだから。
生まれた時は人間まっさらで、誰と信頼関係を結んでいくかで、何を信じるかも変わってくる。
こんなこと言ってはなんだけど、
麻原という人は、
とても穏やかな話の聞き方をする人で、
それがとても安心感を与える。
そして、正しい知識だか、間違ってる知識だかは、私には難しすぎてわからないけど、
語彙も一般レベルより豊富で、知的な物静かな話し方をする。
私はあそこに行けば、麻原を信じてしまうんじゃないかな。
あの見てくれにごまかされてはいけない。
いや、人を見てくれで判断する人は、敬遠するんだろうけど、
あの人は相当勉強してるんじゃないかと思う。
間違った学問は怖い。
あの人は、馬鹿ではない、怖ろしい人だと思った。
弟子と呼ばれる人たちは麻原という人間に魅了され、信じ、
そうなると、教義など関係無くなる。そういうことなのだと思う。
あの集団の考え方は、自分たちの考えに邪魔になる者は力で排除して、自分たちの理想の世界を作ろう。
という原理主義に思うけど(?)
これが宗教テロで、日本ではずっと無かった。
人が脳内でどんな理想を掲げようと勝手で、そこに立ち入ることは出来ない。
でもそれを武力で行使したらいけない。
「どんな信長ファンでも比叡山焼き討ちに関しては、目を覆いたくなるであろう」と、
そのようなことが山岡壮八の『織田信長』に書いてあったと思うのだけど、
井沢元彦によれば、あれは織田信長からの贈り物だと思わなければならないと。
宗教を信じてもよいが、宗教団体が武器を持って政治に口を出したり、他の宗教を攻撃することは絶対に許さない。
比叡山の焼き討ちは、それを徹底させたもののようです。
それにより、お坊さんは丸腰になった。←今では当たり前
それ以前の仏教界の有り様はひどく、
イスラムの過激派のようなお坊さんがいたのですから、比叡山がそれまでにしてきたことを頭の隅におかないと、
比叡山焼き討ちという言葉だけが独立して歩き出し、
今日本で仏教同士の宗教戦争が無いことの有難みが、有難みとしてわからなくなる。
当たり前のことが当たり前で無かったのが歴史で、物事が起きるには起きる理由がある。
信長の行為も理想を武力行使したのだから、許される行為ではない。
でもそれで日本では宗教テロが終結し、人々に安心を与えたのも事実。
さてと・・・
これが本当の親鸞像であるかどうかは、私にはわかりません。会ったことがないですから。
仏の世界なのに俗世以上にドロドロしてなんだかなーな陰鬱な気持ちになりますけど、
最後はスカッーーーーと読み終わることが出来ました。
仏門とはいえ仙人ではないのですから、俗世のしがらみと無縁なわけもなく、
どこの世界でも、悩みや苦しみが無くなるわけではない。
法然上人の教えは、
「ナムアミダブツと唱えれば、誰でも、どんな悪党でも極楽浄土へいける」という至極簡単なもの。
それまでお経と言うのは非常に難しいものであった。
それを法然上人は、誰にでもわかりやすく簡単にした。
確かにキリスト教もアーメンだから誰でも言える。
難しいことを難しく言うのは出来ることだけど、難しいことを簡単に言うことは難しいらしい。
選択(せんちゃく)というのは、片方を選び、、もう一方を捨てること。
どちらかを排し、どちらかに帰命することだ。
法然上人は、難しいお経の中から、文字を選択(せんちゃく)し、それこそ命を削るような思いで削り削り、
選び取ったものが「ナムアミダブツ」のお念仏。
法然上人の命をかけたもの。
でも、
それまで厳しい戒律を守り、修行をし、長いお経を唱えていた者たちと摩擦が起きて当たり前。
また、
「ナムアミダブツと唱えれば、誰でも、どんな悪党でも極楽浄土へいける」を、
「ナムアミダブツと1度言えば、あとはどんな悪いことをしてもいい」と逆説で捉える者も少なくはなかった。
新しいものが、周囲と衝突するのは世の常。
法然上人は75歳というお歳で、僧としての名前も剥奪され、流人の身となる。
痛ましい・・・・・
そこまでがこの下巻で、この続きは激動編になります。
選択(せんちゃく)とは、命がけでやること。
この本の帯の宣伝文句に
『現代日本人の新たなる必読書。徹夜必至の面白さ!』と、ある。
確かにこの本は面白く、胸が熱く、ハラハラドキドキする場面も多かった。
でも私は徹夜まではしなかったよ。
普通に夜は寝ました。
このキャッチコピーは、プロ意識をもって選択したものなのでしょうか。
安易な言葉で、かえってこの本を安っぽいものにしてはいないでしょうか。
また、この本の中に、
『商人(あきんど)は、口から出まかせの弁舌で、商品を高く売りつけるのが腕がいい商人で、
その仕事には、嘘をついているという意識はない。
しかし、心の底では、なにか罪ぶかい事をしているといううしろめたさが、どこかにつきまとう。』とある。
このキャッチコピーと、この親鸞の言葉と比べて、なんだか可笑しくなった。
生きてるというのは、後ろめたいことばかり。
でも、人はそうやって罪を重ねないと、とてもとてもこの大河を渡りきることは出来ないものに思います。