かなしみの種類

生きるかなしみ (ちくま文庫)/著者不明
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生きていくかなしみには、いろいろある。

高史明は自分のルーツ、

水上勉は貧困、孤独、親子の絆、

そして五味康祐のかなしみも重い。

五味は、太宰治の鎌倉の海岸での心中を

「自殺幇助」でなく「殺人容疑」だったのではないかと・・・推測する。

殺意はなかったが、結果的に、自分の手で女性を沈めてしまった・・・・・

太宰の罪悪感の文体はそこからくるものではないかと。

太宰は、人間失格の中で

「罪人として縛られると、かえってほっとして、そうしてゆったり落ちついて、その時の追憶を、

いま書くに当たっても、本当にのびのびした楽しい気持ちになるのです。」

とある。

私は、私自身が、父を死なせてしまった思いがどうしてもあって、

それがまた、なにものからも罰せられない罪深さが、苦しみを増幅させているのを感じる。

「縛られると、かえってほっとする・・・」は、わかる。

罪を犯した人間の裁かれないジレンマはどうにもならない。

五味は、太宰の文体からそういう贖罪意識を感じるという。

太宰の死は、罪を逃れた自己への嫌悪、『贖罪の死』ではないかと。

五味は、続ける。

『昭和四十年に私は名古屋で老婆と少年を轢いた。

私の場合は過失致死罪であったが、事故の直後私の置かれた精神的苦痛は、

三者には到底わかってもらえないだろうし、こんなことは誰もわからなぬ方がいいが、

(以下略)』

その事故後に自分が書いたものと、太宰の文体がそっくりで驚愕したというのだ。

事故は加害者も被害者も地獄すぎる。

うちの母が事故にあった直後、父は暫らく運転が出来なくなった。

その後また落ち着くとハンドルを握るようになったが、

多分怖ろしくなったのだと思う。被害者より、加害者になることが。

ほんの一瞬で、人は被害者から加害者になるのです。

そして、それは他人事でなく自分なのです。

加害者になる恐ろしさを一番わかるのは被害者だと被害者家族の私は思う。

その五味が三島由紀夫の事件を語る。

『私が死なずに、三島由紀夫は死んだ。


彼の割腹を人は意外だというが、五年前に死ななかった私自身も私には意外である。


三島君の自殺と、死なない私はその意外性において、少なくとも私の内面では等質だ。

むろんこんなことは人には分ってもらえないし、こんなことを誰もわからないほうがいい。

でもそれがあるので、三島君の死は、私には二重に衝撃だったのである。

私の死ななかった理由は自分の口で言うことではないだろう。

どう弁解したところで、私はこわくて死ねなかったのである。私は神にすがった。音楽ばかりを聴いた。

すぐれた音楽がぼくたちにもたらしてくれる浄化作用に浴さなければ、

今のように生き耐えてこられなかったろうと、このことは当時にも書いた。

本当に、あの時私を支えてくれたものは文学書ではなく音楽だったから、

ブラウン管の三島君を見ていて、どうして音楽を聴いてくれなかったんだろう、きっとそうすれば、

今いるようなそんな姿で君は立たずに済んだろうと、私はテレビへ言いつづけていた。』

五味に「死なないで下さいよ」と言った三島が死んだ。

代われるものなら、僕が死ぬべきではなかったか、本気でそう呟き続けた。とある。


五味ほど三島の死をいたましく感じている人はいないかもしれない。

割腹自殺をした三島もかなしい。

五味の事故の被害者もかなしい。

そして、事故を起こした五味もかなしい。

悲しみの事実だけは、もう泣いても叫んでも変えること出来ない。

変えられることは、自分の思い・・・だけ。

そして誰しもが悲しい存在である。そのことは思っていたい。