貧困

生きるかなしみ (ちくま文庫)/著者不明
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水上勉(小説家)

こういう人に物申されると、私たち世代は返すことばがない。

父親は棺桶大工。

家は貧しく、電燈は無い、風呂は無い、水はもらい水、畳は正月のみで普段は板にゴザ。

盲目の祖母は「村あるき(今でいう回覧板)」をしてお給料をもらってた。針仕事もする。

自分は9歳で出家、禅宗は得度すれば、親を捨てるように教えられるが、

親への思慕は切って切れるものではなかった、と言い切る。

その後、わが子(息子)とは生き別れ、

次女は脊椎破損症で生れた時から歩くことが出来ない、

と、波瀾の人生だが、その時代の人たちは国の動乱により波瀾は必定という。

今の時代、どれほど貧しくても口べらしで子供を出家させる親などいないだろうし、

ましてや、子供が自分の家の陰惨さから出家という孤独を選ぶこともないと思う。

それでも親と子の絆とは距離ではないし、かえって近すぎてややこしいのが現代なのではと問う。

『うとましく、にくたらしく思えた家、9歳まであんなにひもじかったのに

いま裏返しになって、暮しぜんたいが別の色彩と声を放っている。』

幼い日の貧困がどれだけ大切なことだったか・・・水上は振り返る。

今、世の中が、こうして1つの家で電燈のある暮らしをして、

『この上何が欲しいのか・・・と不思議に思う・・・

盲目の祖母も歩けない娘も自分の家で面倒をみ、人や役所に世話を焼かせるということだけは

慎みたい、と必死に生きている。

子にのこすものがあるとすれば、そういう考え(精神といってもいいか)しかないではないか。

物なんてものは、いつか無くなるものだから。永くのこるのは心しかない。』

水上勉の言葉にこんなのがある。

『美しい女とは、貧富にかかわらず、己を無にして生きている女性のことをいう。

私はそのように解釈している。己を無にするといったのは、つまり、頭の中をいつも空っぽにして、

世間というものの恐ろしさ、美しさ、きびしさを身に泌ませつつ生きるということでもある。』

私は、このことばを宝ものにしている。

幸田露伴は、娘(幸)の成人式にわざとボロを着せた。


恥ずかしいと思う娘に「恥ずかしいのは衣服でなく、貧しさを恥ずかしいと思う心だ」と諭した。

この世代の人たちは、ハナから社会に頼ってない。

親さえ頼るものとは思ってない。幼い時から覚悟が違う。

そして親子の絆は、親と子の生命だという。

貧しさ、切なさ、水上勉の作品は、人のかなしみが溢れてる。

そのかなしみから、私は多くの勇気、生きる力をもらっている。