50年前の対談

人間の建設 (新潮文庫)/小林 秀雄
¥420
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本を読む以上に、そこから自分が何を感じたか、何を得たか、文字にすることの大切さを感じて

いつもブログに向かっている。

読んだものを無にしないように、自分の為に書きとめている。

この本の2人の対談は、(難しすぎて)私などが語れるものではない・・・

そう言ってしまえば、簡単なのだけど、

それは自分に対する逃げなので、仕方ない、何かしらを書き記そうと思う。

あまりにスケールが大きすぎて、どこか部分的に摘んでも、そぐわない気がするし、

かと言って、あまりに2人の話が高尚過ぎて、私など浅いとこでしか理解していないのだろうけど。

『直感と情熱』

この重要性は、多くの人が言っている。

どんな思考の世界の人も、芸術の世界の人も、直感を何より重んずる。

東北大震災の被災地の小学校の校長先生も

「マニュアルなど何も役に立たなかった。有事に肝心なのは直感。」だと。

今回は山に逃げて助かった。だけど次回もそうとは限らない。次回は、山崩れがあるかもしれない。

そういう意味で、今は賞味期限やなんやらマニュアルで人を管理することは、

人間の敏感にしておかなければならない感覚を、鈍くさせている。

と、書いていた。

ここでは、その勘とは知力だという。

今は世界的に知力が落ちてきて、

知力が落ちるということは、物の本当のよさがわからなくなる。

実社会と結びついてしか物事を考えられなくなり、それが功利主義で、暗黒時代で

小説、絵画、音楽、そういったものの衰えとして、一番敏感に表れる。

教育の基本は、自己教育である。

自分が自分を教育する。

勉強で考えるからよくわからないけど、

私が、ある男性を知ろうとする時に、

履歴書見たってわからない。

人から「こういう人ですよ」と説明されたってわからない。

自分が主体となり、360度から忍耐強く眺め、積極的に自分から話しかけなければ、

その人を好きにも嫌いにもならない。結局のところ何もわからない。

その人の名前や生年月日憶えても、どうにもならない。

まずは『姿』をそのまま見る。

今は実体がなくなり、答えを求めることばかりに躍起になっている。

そういう意味で素読がよいという。

現代に於いて素読の復活などありえないと理解した上で考察してます。

素読とは、江戸、明治の学び方で、論語や古典を意味を問わず暗誦、丸暗記すること。

かなり酷な勉強法だ。

今は素読はよくないものとして、教育からは敬遠されています。

谷崎潤一郎素読に関して

毎日毎日同じ音色を繰り返し聞くために、音に対する感覚が知らず識らず鋭敏になる。

耳が肥えてくるのであります。

と、文章読本の中で説いている。

ふむ・・・

クラシック音楽もある程度繰り返し聴くことにより、理解が進むのと同じなのかな。

見る、聞くにも、忍耐が必要。

真逆なようだけど、

勘を養うには、そのままをただ見て聞くことの忍耐。

無意識が、感覚を鋭敏にさせる。

それは教わることでなく、自分から迎え討つような、忍耐の上で自分の血肉にする。

人は、躓いて、立ち止まって、壁を越える。

そうであるならば、

今、私たちは目に見えている壁でなく、人類のもっと大きな壁、それを超えれば

何か新しい人類の歴史が歩めるのかもしれない。と。

この可能性はすごい次元のものだと思う。

岡『私は数え年五つの時から中学四年のときに祖父が死ぬまで、他を先にして自分を後にせよという

ただ一つの戒律を、祖父から厳重に守らされたのです。

それからのち数学をやっておりますが、数学の研究に没頭しておりますときは、

自分のからだ、感情、意欲という意識は全くないのです。』

小林は、ゴッホの麦畑の複製を見、感動でその場に座り込んでしまったという。

何年後かに、本物を観に行き、複製ほどの感動が無かった・・・と。

『無』で『姿』を見る。

これがいかに大切で、難しいことか。

この本は50年前の対談だけど、

この2人の感性の導くところには、人類の新しい一歩がある。

そんなことを感じさせてくれるスケールの大きな本でした。