小さき者へ

有島武郎小さき者へ

6歳、5歳、4歳の息子を遺して、妻は結核により他界。

その息子たちに宛てた有島武郎の壮絶なメッセージです。

私の父がこれを読んでたらいいな・・・と、思うのと、

きっと読んではいないだろうけど。

読めばきっと救われたのではないかと・・・


私の母が事故にあったのは、自宅から100Mにも満たない場所。

事故の知らせを受けて、父は「藤子は待ってなさい」と言ってひとり現場に向かった。

近所の人が「藤子ちゃん、お母さんが大変よ。早く来て。」と言うので

庭まで出た所で、引き返してきた父と会った。

「中で待ってなさいと言っただろ。」と叱られた。

私は

多分その時点で

あきらめた・・・

あきらめたと言うより

母は死んだのだ

と、

感じた。

私は、いつだったかの晩、母と話したのだ。

人は最期まで耳だけは聴こえているから、死の間際まで声をかけるからねと。

私のその思いは果たせなかったけど、

最期のひと目を会わせなかったことを、後悔はしないで欲しいと願う。

「そんな母の姿を娘に見せたくない」と父がそう望んだのなら、

私はそれで良いと思っている。

有島武郎の妻は、病院に入ってから死ぬまで、いや、死んでも子供とは会わなかった。

幼き子どもの清い心に残酷な死の姿を植え付け、その一生を暗いものにしてしまうことを怖れたのだ。

その1年と7ヶ月を有島は、血まみれになって闘ったと書いてある・・・

母の死後、私の父は言った。

うちは他の家と違ってお母さんがいないのだから、

藤子は他の子のようにいつまでも遊んでてはいけない。

買い物行って、ご飯を作る。そうしなければ家が成り立たないのだと。

厳しいなぁ。。。

でも、他の子は他の子。うちはうち。それが現実。

子にとって理不尽であろうと、それを受け入れていくしかないのだ。

ただ、毎日仕事から帰ってきて掃除機をかけ、お風呂掃除をしている父の背中を見ていれば、

そうせざるおえない気にはなったのだけれど。

映画『ネバーエンディングストーリー』の冒頭、朝食の場面で父が息子に

「ママが死んだからと言って、お前がしなければいけないことを怠ってはいけないよ。」

と諭すシーンがある。

まったくだ・・・

死は特別なことだが、

それを日常にしていかなければいけないのだ。


人は14歳くらいまでの経験が、その後の人格形成に大きく影響するという。

母の死が私に与えた不幸は大きい。

だけど、

それ以上に私が与った(あずかった)ものの大きさを思うと、

自分が不幸だとは到底思えない。

それは母の命と父の涙。

その尊いもので今も尚支えられている。

とてもじゃないが、

親の意志で与えようとして与えられたものではない。

親というのは

意志ないもので子どもを育てるように思う。

この有島武郎の子どもに宛てたメッセージは、そんなひとつひとつを思い起こさせる。

そしてその自分を踏み台にして子に大きく羽ばたけと言っている。

親など踏み台にしてよいのだ。

子は、背負った運命を糧に、さらなる高い所に飛び立たねばならない。

有島武郎の最期は、

人妻との心中だ。

腐乱した状態で発見され、遺書により本人と確認される。

3人の幼子を寝る間なく育て、見守り、子ども達にこれだけの力強い文章を残し、

それでも最後は人から褒められた死に方ではない。

でも、そのことを私は人生の皮肉とは思わない。

対比としても考えない。

そのすべてをひっくるめて『人間』なのだと、そう受け取る。

小さき者へ』は、携帯の青空文庫で読める。

小説でなく、ただ子どもに宛てたメッセージなので10分ほどで読めるんじゃないかな。

良い文章です。