イスラームから世界を見る
インドネシアが一番多く、次いでパキスタン、インド、バングラディシュ、エジプト、ナイジェリア、イラン、トルコ
の順になる。
単なる国の人口の差かもしれないけど、アジアにこれほどムスリムが多いとは意外だった。
インドネシアは人口の87%がムスリムではあるけれど、イスラム国家ではない。
イスラム国家とは、国の統治や法体系がイスラムに従っている場合をいう。
日本は憲法が最高の法規で、国家に憲法など当たり前のように思うけど、
国家憲法の無い国もあるし、あっても憲法が停止状態の国もある。
守るべきものは神様の法律。
人間(国)が決めたり、裁いたりには、間違いもあるけど、
その場合でも神様はわかってくれているから大丈夫という。
ものすごい神に対する信頼だ。
日本でも、誰もわかってもらえなくても御天道様は見てるという考えはあるけれど、
この世の理不尽に耐えるには、人間を超えたものの力が必要なのかも。
アラブの民主化は、たとえ政教分離だとしても、欧米的近代化とは異なって、
欧米の頭で考えると、どこへ向かいたいのかがよくわからない。
ムスリムとして覚醒すればするほど、アジアだから、中東だから、という違いは消えてしまいます。
もっとはっきり言うと、国家のアイデンティティも、どうでもよいものになっていきます。
イスラムというと、中東を思い浮かべ、アラブ人と思ってしまうけど、
イスラム=中東=アラブ人=の図式ではない。
イスラムという1つの共同体の意識があるから、タリバンやらアルカイダやら、ヒズボラやら、
国を超え、民族を超え、あちこちに現れるのかな。
イスラムという一共同体の強い絆。
のはずが、分裂して争っている。
争いって、
自分の価値観の押し付けなんじゃないかな。
守りたいものがあると、人は正義感で争う。
正義感をもつと、人間の本来の基本的姿、寝る、食べる、愛する。と離れていくような気がする。
とは司馬遼太郎の言葉。
オサマビンラディンも自国サウジアラビアの絶対君主への悪政批判から始まった。
絶対君主では君主が法律だ。
君主国で君主に逆らったため、国外追放となる。
正義感に燃えていたのかもしれない。
それがどこかで反米へと向かい、あのような事件を引き起こした。
お金もあって、征服欲が強いと、迷惑を被る人間は必ずいる。
何かを守ろう、幸せになろうとする裏で、必ず悲しみくれる人はいる。
アメリカは、世界のあちこちの紛争に介入する。
アメリカの強大な力でしか治まらないのも現実で、
人道的に考えればそれ以外救いようがないと言えるのかもしれないけど、
力で圧したものは、結果的には禍根を残す。
どこの国も長年のその民族の培った価値観があって、理解されなくてもその土地独自のルールで生きている。
日本もアメリカには感謝している。
その裏で、やはり自分の国の憲法を自分の国で作っていないややこしさは、
戦後これだけたっても日本の悩みの種になっている。
世界の絶対君主アメリカが、どんどん怪しくなってきている。
人道支援しているつもりでも、その土地の人たちから敬意を評されないとしたら、やはりそこには何かある。
アメリカ的合理主義が世界中で通用するわけでもない。
100年後には、今とまったく違った勢力図になっているのかもしれないな。