キリスト教おぼえがき。
阿刀田高のこの本は、初めて読む。
その前に、この手のもの何冊か読んでる。
でも、
キリスト教よくわかってない。
が、本音。
わからないという時は、
『何がわかってないかもわからない』
というのが実情で、
そのわからない部分を掘り出すことが難しい。
『日本国の主権は本州、北海道、九州及四国並にわれらの決定する諸小島に局限さらるべし』
という条項を受諾をしている。
日本は、このことを中国から叩きつけられた。
連合国側に決定権があるのか。
そんな約束あったこと、知らなかったなー。
日本人は中国に対して情報操作があることを指摘するけど、
日本にだって、このように国民に知らされてないことはある。
このことを黙殺せず、じっくり考えていくことがまず自分たちが出来ることなのではないのかな。
相手に耳を貸す懐の深さが大切で、これが騎士道で、
受けの美学を失うことのほうが、領土を失うより大きな損失に思う。
このように、わからないことを探すのはわからないから、大変なのです。
宗教もしかり。
まず、『新約聖書を知っていますか』を読む前に、私がわかっていることのおさらいをしよう。
キリストとは、苗字がキリストなのではない。
いや、笑い話ではなく、宗教に関わりがない私には、そんなことだって知らなかった。
キリストとは救世主のこと。
イエス・キリストというから、日本人なら、名前と苗字に思う。
そして、
カエルの子はカエルだからイエスも神なんだろうけど、
でもキリスト教は神はたった1人しかいないといっているから、
よくいう「父、子、聖霊の御名によって・・・」は、
ヤハウェイとイエスと聖霊(よくわからないけど聖なる霊ってことで)
の3つの聖なるものを合わせて『神』としているようだ。
聖書とは何か。
なんだろうね。
私は神の存在を信じていないから、
新約聖書は、イエスが言ったこと、したことを、弟子たちがまとめた指南書に思ってる。
モチーフとしては、
新約聖書は、イエスの生涯、キリスト教の活動記録、最後が黙示録。
なんでも、最初と最後は肝心だと思う。
聖徳太子の十七条憲法は一条と十七条に同じことが書かれている。
17しかないのに、1と17が同じなのだから余程大切なのです。
内容は、『みんなで話し合って決めなさい』要するに『和』ですね。談合ですね(笑)
これがとても大切なことだというのはわかる。これがなきゃ神が神にならない(笑)
まぁ、科学とはここからして相反してしまうのですが、それは置いといて。
これが抽象的過ぎてサッパリわからない。
「見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデの子孫が勝利を得て、七つの封印を開く」
とかサタンとかハルマゲドンとか666とか出てきてるので、
天使が悪魔と戦ってるっぽいけど、これが終末思想というものなのかな。
今から2000年前でしょう。聖書カッコイイ(笑)
あくまで、私のイメージですが、
大雑把すぎるイメージなので、信者の方にはゴメンナサイ。しておきます。
私の理解は火あぶりの刑でしょうけど、あくまで自分の覚書、
少しづつ理解は変わっていくかもしれないので、言論の自由認めてください(汗)
まず、『神』という土地に1軒の平屋のお家が建ちました。
表札には『ユダヤ教』と書いてあります。
そんなある日、
「私はこの家の息子です。この家はまだ完成しておりません。私が増築しましょう。」
と言いながらイエスが2階を建て始めた。
そして『キリスト教』という表札を立て、
旧い時代はユダヤの人しか住めなかったけど、今は新しくなって誰でも住めますよ。と。
イエスも、元々は1階の住人だったと思う。
でも1階部分だけでは全人類は住めない。増築して全人類を救おうと、それが父の願いなのだと。
1階に住むユダヤの人たちは、
「イエスなんて息子じゃない。この家はユダヤだけのもの。不届きものだ。死刑にしろー!」
そんな感じで、イエスが処刑された時、まだ増築した2階部分はテント程度だった。
死んだイエスに会ってしまった!
死んだはずのイエスが「パウロくん、キリスト教のことはキミに任せたよ」と。
ひょえー。パウロくんびっくり!
パウロくんは、それまで1階の住人で、2階のキリスト教住人に対し「出てけー!死刑だー!」
と言っていたのが180度転換して2階の住人の先導に立った。
パウロくん、元々が優秀だったので死ぬ気でがんばった。相当がんばった。多分一番がんばった。
「イエスを信じなさい。信じる者は救われる。」
イエスの意志を受け継ぎ、2階にいっぱい人を呼び、増築、増築、
イエスのいた頃はまだ小さかった2階が1階を凌いでしまった。
そして気づくと、中2階にイスラム教が増築してた。これまた1階より大きくなってしまった。
イスラム教「イエスなんて息子認めないよ。私が長男ですから後継者は私です。」
キリスト教「長男といっても、そちらはお妾さんの子でしょ。
うちは次男といっても正妻の子ですからね。私が正統な後継ですよ。」
ユダヤ教「キリストもムハンマドも認めないよ。ユダヤだけが特権を与えられたんだよ。」
地盤(神)は皆、同じなので、
主権の争いというより、主観の争いと言いたい。
主観は100人いたら100人違う。
夫婦だって、どちらかが性欲を自分本位に行使したら、それは暴力となる。
他者との折り合いをつける最小単位が家族で、
夫婦なり親子なり、折り合いをつけるには、自分をコントロールしていかなければならない。
それが、近所、学校、会社、国、と大きな集団での折り合いとなり、
宗教間も同じに思う。
でも自分をコントロールするより、得てして他者をコントロールしようとする。
主観が勝っているからだ。
パウロじゃないかな。強引さもあるが。
自分をコントロール出来ずに他者をコントロールさせようとするのは迷惑としか感じられない。
だから今の宗教の在り方は迷惑なのだ。
途中で契約が違ってしまったのだから、当然と言えば当然。
だから旧と新という言い方をしているけれど、ユダヤ教は旧などど思ったことは1度もない。
新約は、救世主イエスが登場し、私たちの身代わりになって神に裁かれてくれた。
イエスを信じさえすれば、私の諸々の罪は赦される。
ここだなぁ。。。
最初から神の存在を信じていない私は、
自分が罪人であることは理解していても、
自分自身が神の怒りをかう存在だという畏れ多い気持ちをどうしてももてない。
だからイエスが身代わりになってくれたと言っても、
私の存在は、裁かれるべき存在なのか?
不遜でスイマセンと言うしかないのだけど。
旧約を信じてないから新約をもっと信じられないということなんだなぁ。
だからといって、
信じてる人の気持ちがわからないわけではない。
多分、私はなんで信じられないんだろう。
という謎があるから、ここまで興味深く感じているのだと思う。
目に見えないものを信じる、受け入れるというのは難しいなぁ。
でも、
神の存在を信じない私としては
それを一番に感じていたのはイエス自身だったような感じがしてしまう。
自分が神の子ではなく、人の子であることを一番わかっていたのはイエスなはず。
人の子が他者を信じさせるには
自分が喜んで死を受け入れるという自己犠牲が必要だった。
それにより周囲をコントロール出来たのだと思う。
言葉だけでは人はコントロール出来ないこと、イエスはわかってた。
イエスは自分自身が一番下にへりくだった。
崇高な者の哀れな死。これがイエスが愛され慕われた理由に思う。
で、この本を読み始めます。楽しみ♪