日曜日の読書
本の読み方が書いてある本。
へ〜〜〜!と思うことばかり。
私は今まで何も考えずに読んでいたみたい。ガッカリしてしまう。
でも知らないことを教わるというのは本当に楽しい。
いくつになっても楽しいことって、いいな。
芥川が主張したいことをあえて今日的に言うならば、
「どうか皆さん考えてもみてください。この世の中の出来事は正解のあることばかりでないでしょう。
ロッキード事件であれ、リクルート事件であれ、オウム事件であれ、事件に携わった人たち一人一人に問いただせば
それぞれの立場で証言する。
しかし誰の証言が正しいかとなると真相はなかなかはっきりしないものです。
どこかに正解が潜んでいるはずだが、全体的に解明しようとしても、それぞれが自分の立場で主張する限り百パーセント
の正解や解決はとても見つけにくい。それが世の中の実装ではありませんか」
ということを訴えたかったのだと思います。
わからない小説はそれ以上お読みにならなくてよいと思います。
世界が違いすぎているのですからお捨てになるほうがよいと思います。
小説の世界は多様でして、ある人の感性には訴え得るけれども、他の人にはまったく無用というのも多々あります。
特に純文学の世界には、ある意味で読者を拒否しているのではないかと思われるようなものさえもあります。
小説の定義ははいろいろありますが、ひとつには読者が読み終わった時
「ああ、ここに人生がある」と感じさせるものが小説だともいいます。
これは日本人社会が持っているモラル・常識と、それとは全く違った別のモラル・常識との間の
アンビバレントな関係の中で、一つのバランスを見つけ出そうとする男の思考とも言えるものです。
芥川龍之介も、非常に性格描写がみごとである反面、意外にパターンを背負った人間、
つまりあまり生身を感じさせない役割を演ずる人間を登場させていることが多いのです。
現世が持っている様々な苦痛、辛さを抱え込んでなおも乳を与え続ける姿こそが、
インドの現状における神であると説明しています。
小説の世界は今年が赤が流行しているから赤でゆこう、来年は青が流行するだろうから青で、
というふうには出来ていない。その人が持っている資質で書くよりほかにないのです。
それが時流に合わなくてもどうにもならない。赤しか書けない人には赤しかないわけで、
借り物は駄目なんですね。その赤が流行遅れであったり、あまりに早すぎたり、
せっかく時流にあっているのにその直前に赤の名人がいたり、なかなか思ったようにはいかないものです。
運としかいいようのないものを感ずるときがあります。
最後に執念です。世間の人は、なぜか小説家というと、お金が儲かる仕事のように思いがちですが、
経済的に豊かにやってゆけるのはせいぜい三、四十人ぐらいですね。
一つの国が世界の頂点に立つ期間はおよそ二百年くらい・・・。年数はともかく一定の年限がある。
二十世紀はアメリカの時代ですし、十九世紀はイギリス、十七、八世紀の支配者はフランスでした。
世界の概念が変わっていますが、それ以前にはスペイン、オランダがあって、
もっと遡ると古代ローマという大変強力な国があり、その向こうに現代にも繋がる一つの文化をもった
古代ギリシアがあったわけです。
森本さんがおっしゃるように、ある期間、世界のナンバーワンに座っていると金属疲労が生ずるのかもしれません。
私はと言えば、イエスは偉大なる革命家であり、偉大な思想家であったと考えております。
日本の文学界には、純文学と大衆文学の二つの区別があります。
欧米にはこうした区分はあまり顕著ではありません。
純文学は、真理とは、人間とは、世界とはを追求し、芸術性を志向するジャンルであり、
大衆小説は娯楽としての面白さを追求するものでしょう。
本来的にはこんな区別は必要ないのですが、日本の文学にはなぜか実在しています。
私は今でも自分の文章が荒れたなと感じた時に、中勘助の「銀の匙」を2、3度読み直すと、
手が直るような気がするほどです。気のせいですがね。
この、大ベストセラーになったという点が、実に悩ましい。同時代が無視するわけにはゆかないところなのです。
大勢に愛読されるという事実は軽々に考えてよいことではない。
そして、さらによく見ると、この小説には、大切なところをあえて書かない特徴があります。
大江健三郎の文学は積み重ね積み重ねして構築されています。
だからそもそものところから解きほぐしてこないとなかなか理解出来ない側面が確かにあるのです。
阿刀田高は私の読書の先生だ。
大好き。