古典元年
私にとって一番の古典は『アダムとイヴ』
聖書とか宗教抜きにして、ごく普通に物語として凄いと思ってる。
古代から現代に至るこの世の根源がすべてアダムとイブに集約されているかのような印象で、
しかも、こちらに問題を投げかけたままなので、私はずっと考えさせられる。
今起きていることも、ついアダムとイブに当てはめて考えてしまう。
なんの変哲もない物語のようで、深い、深い、どこまでも深い。
近代的ロマンティックなものは、主観的手法によって作られ、
古代的なクラシックなものは、客観的手法によって作られる、という考え方がゲーテにはある。
古代ギリシアの神話や彫刻は特定の個人の主観によって作られてはいない。
作者の個性などは問題にならない。
ゲーテは、「私は健全なものをクラシック、病的なものをロマンティックと呼びたい」といい、
「近代のたいていのものがロマンティックであるというのは、それが新しいからではなく、
弱々しくて病的で虚弱だからだ。
古代のものがクラシックであるのは、それが古いからではなく、力強く、新鮮で、明るく健康だからだよ」と語る。
なんというか・・・・・
この言葉だけで、ひっくり返りそうになる。
古典の前では、
個性さえ、ただの感傷になってしまう。
個性をも凌ぐようなスケール。
この前、
ミスチルだったかな。
「ミスチルという名前でなく、ただ後世に歌として残るような曲を作りたい」と言ってた。
多分、そういうことなのだと思う。
バッハがそう。
バッハは自分の世界を描いているのとは違う。
アダムとイヴもそう。
なんというか、
ある一定のものを描いているのでなく、
世界観というような、いや世界観よりもっと大きな『観』なのかなー。
勿論、人の手によるものだから、主観が0ということは、ありえない。
主観が0なら、操り人形で、なにか大きな力が、描かせたことになる。
でも、技術はバッハだけど、心はバッハという個人を超えた世界に思う。
個性のあるものは、人を選ぶし、気持ちによっても違うけど、
圧倒的な何かは、すべてに通じるものをもってる。
古事記の中の明るさ、健全さは、
良いことも、悪いことも、クソも、ミソもいっしょくたに並列でそこに在るからかな。
捨てる神もいます。拾う神もいます。
現世そのままを肯定しているように感じる。
それが、もっともこの世らしいもので、
どうしても、子供を可愛がれない親もいる。
どうしても、いじめる人もいる。
その現実は変えられない。
でも、
救ってくれる人がいたら、
その子には新しい幸せの可能性となる。
捨てる神の現実は変えられそうにないけど、
救う神なら、誰でもなれる。
10人にいじめられたって、20人庇ってくれる人がいたらいいと思うのだけど。
いや1人でもいい。
庇うのでなく、一緒に殴られてくれる人でもいい。
でも今の社会だと難しいのかな・・・・
齋藤孝の著書は、
強弱がハッキリしていて、要点も適確にまとめてあって、
読みやすい。
言ってることにも、なにひとつ、文句のつけようがなく、素晴らしいのだけど、
だけど、
なんだかな。
何かに欠けていて、
それが重大なものに思うのだけど、それがなんだかわからない。
齋藤孝が本の読み方として、
大事なページは角を折りなさい、
線を引きなさい、
と、言ってるように、
彼の書いた物は、線を引く場所が、まるで掲示されてるかのように、
わかりやすい。
コチラが線を引く前に線を引かれてしまっている気がする・・・・・
全部段取りされた本になってしまっているのかな。
なんだか、わからないけど、
何か大切なものが欠けていて、すごーくいいのに、何かが無い。
なんだろう。
それでも、前に読んだ『読書力』に文庫100冊、新書50冊読むようにあったので、
まぁ、なんとか読んでる。
中公新書は、教科書みたいで今まで敬遠していたけど
読んでみると、人が人生をかけて研究したものは、深い。
50冊読めば、だいぶ読む力もついてくるとあるので、これからも中公新書は少しづつ読んでいきたい。
いや、中公新書でなくてもいいけど(笑)
そして、今回は古典50冊!
この歳から古典50冊は、死ぬまでに読み終わらない(涙)
古典は最初の敷居が高い。
この古典力の本には、オススメ50冊が、
見開き2ページで解説してあるので、
本当は、本なんて先入観無しで読むのが絶対的にいいに決まってるけど、
私の先の時間を考えると・・・・・
効率を優先させようと思う。
2013年は古典元年にしよっと。
古典は時間がかかるから、1ヶ月1冊、読めたらいいな。