寛容さ



古典力 (岩波新書)

古典力 (岩波新書)


グローバルに情報が行き交うようになってはきたが、民族間、宗教間、国家間の緊張は

必ずしも緩和していない。

価値観の多様性を受け容れる知性の力が、他者に対する寛容さとなる。

世界はこれから、他者理解に基づく寛容さの方向に行くのか、

それとも理解を拒絶した不寛容の方向に行くのか。

この方向性を左右する重要な鍵が古典力だと私は思う。

多様な価値観を理解し受容するには知性が求められる。

数々の古典を自分のものとしていくことで、この知性が鍛えられる。

自分の好き嫌いや快不快だけで判断せず、背景や事情を考え合わせ、

相手の考えの本質をきちんと理解する。

この深みのある思考力が知性だ。

古典を読むと、思考に深みが出てくる。

骨太な思考力、想像力が古典の中には埋まっている。

それをかみくだくように読み込んでいくと、読むこちらの思考も掘り下げられてくる。

深い思考のテキスト(書物)は、思考の垂直的な深さの感覚を刺激してくれる。

日常の思考は他愛もないことが多い。

他愛もないことを語り合い、メールし合うのは人生の大切な楽しみではあるが、

それが生活の大半を占めているのでは、深みのある思考力が育ちにくい。

古典は、その一つひとつが強烈な個性で屹立している。

それぞれの古典は自分の足で立ち、自らがその思考の根拠となっている。

要するに、小手先の借り物では亜流でしかなく、時の審査に耐えて「古典」と認められることはない。

知性とは、

他人への寛容さに通じる。

養老孟司の『教養とは他人の心が解ること』もこの意に思う。


寛容さ・・・

これは、あくまで私個人の思い。

もう遠い昔の話しになるけど。

通勤途中の公園で、見知らぬ女の子がいきなり私をぶってきた。

「急にぶったら痛いでしょ。なんでぶつの?」と尋ねても

何かは言ってるけど、わからない。

しばらく話を聞いてて遅刻はしたけど、理解ある職場なので問題ない。

翌日、公園を通るとまたその女の子と会った。

「おはよ。」と話しかけても無言。

そんなことが続いたある朝、私が普段よりちょっと出るのが遅くなってしまった。

それでもその女の子は、公園にいた。

そして私の姿が見えると、いつものように駅に向かって歩き出す。

そこで私はようやく気付いた。

この子、しゃべらないし、笑わないけど、私を毎朝待ってるんだ。

並んで歩いてはいないけど、一緒に駅まで行ってるつもりなのだと思う(笑)

私の前を行く歩き方が、どうやらお気に入りのようです。

返事はこないけど、私はいつも勝手に話しかけていた。

そのうちに、ポツリポツリ彼女が話すようになった。

脈絡が無いから、なんの話かわからない。

「○○ちゃん、かわいそうだね」と、言われてもそれが誰だか私にはわからない。

「○○ちゃんて、誰?」と聞いても

彼女は、受け答えが出来ない。

私の問いかけにまったく反応しない。

それでも「○○ちゃん、かわいそうだね」で始まり

「○○ちゃんて、誰?」が、毎日決まった会話(笑)

それ以外の言葉が彼女の口から出ることはない。

何ヶ月かして、それが金八先生に出てくる女の子の話であることがわかった。

彼女が話せる言葉は、少ない。

会話にして5個もない。おはようも名前も言えない。

毎日リュック背負って、水筒下げて、どこへ行ってるのかもわからない。

それがある日「おねえさん、バレッタいくつ持ってる?」と聞いてきた。

すごい!このように言葉がある日突然飛躍的進歩を遂げることがある。

もちろん、私が何と答えようと、彼女は私の答えなど聞いていないのだけど。

が、そのバレッタを私の髪から取ってしまった。

「取ったらダメでしょ。返して。」と言っても聞く耳もたず。

そうして、私は3回4回取られた。

何度言っても彼女にはわからないので、私がバレッタをするのをヤメた(笑)

通勤にバレッタなど無くても問題ない。

会話は、ほぼ「○○ちゃん、かわいそうね。」と毎日同じ言葉だけなのだけど、

私が「そうだね。かわいそうね。」と答えると満足気な顔をする(ような気がする)

またある日突然「日曜日バザーやるから来て。」と。

すごい!また飛躍的進歩だ!

「うん!行くよ。どこでやるの?」と尋ねるが、彼女は一切答えることが出来ない。

結局日曜日までしつこく尋ねたけど、どこでバザーをするのかわからなかった。

そして月曜日の朝

「バザー来なかったね」

「うわーごめんねー。どこでやってるかわからなくて。」

と言ったところで、弁解でしかないんだろうなと思うと悲しいんだけど、

「バザー来なかったね」は、その後しばらく続いた。

こうして、何年か彼女と朝の駅までの時間を共にした。

ある時、コンビニで彼女が母親らしき人と一緒にいるのを見かけた。

お母様に、駅まで毎朝一緒に行ってること伝えようかと思ったけど、

そうしたら名前も聞けるし、少し情報も聞けるかなーと考えて、

声をかけるのをやめた。

毎朝、一緒に駅まで歩く。

親のまったく関知しない世界をこの子がたったひとりで築いている。

親が敷いたレールでない道。それを私や親が壊すことはもったいない気がした。

意思の疎通が出来ず困るけど、困った付き合いがあってもいい。

世の中は、困ったり、困らせたり。苦労して当然。

彼女は障害者だと思う。

私のモノを取ったり、ぶったり、困ることもある。

健常者と比べて、確かに問題はある。

でも、

冬の寒い間も、強く降る雨の日も、毎朝必ず私を待っていてくれる。

会話も通じないし、手を繋ぐこともなく、とっとと歩いていっちゃうけど、

それでも

私が朝、遅くなった日も、必ず待ってる。

私が来ると信じて待っている。

「待たせてごめんね。」と言っても特に反応はかえってこないけど

それでも満足気に歩き出す彼女と後を歩く私。

朝から待っててくれる人がいるのは本当に嬉しかった。


うちの父も障害があった。

ある時、救急車で病院へ行った。

体調が安定して、夕方、病院からタクシーで帰ろうとしたら

乗車拒否された。

父は手足がほとんど動かないのでタクシーに乗せるのに、運転手さんに手を貸して欲しいと私が頼んだからだ。

「もし手を貸して、転んで怪我でもされたら困る」という。

確かにそう、私が支えきれず、それでよく怪我をさせる。

でも怪我をする方が、帰れずにここで途方に暮れているよりいいんだけど。

家に他に誰かいるわけでもなし、結局電話して2人ばかり駆けつけてもらって無事帰れた。

飛んで来てくれた赤の他人に涙です。

いつの間にか『障害』の『害』の字は使わないことになったらしい。

理由はあるようだけど、

障害とは、人より多くの荷物をもってることだと思う。

彼女も本来背負わなくていいものなのに、小さな背中に毎日背負って生きてる。

人に迷惑かけることなど、彼女にしても、うちの父にしても本意ではないはず。

運転手さんには『害』で拒否されたわけでなく、

一緒に『害』を背負うことを拒否されたのだと思う。

『害』は、大変なのです。だから『害』なのです。

それを受け容れて、一緒に背負うのが、社会の寛容さなのではないでしょうか。

『害』を無いものとして、だから仲良くしましょうでは、あまりに情けない。

社会から寛容さが失われているから、色々なものが排除されているように思う。

あれはいけない。これもいけない。とうとう字まで排除。字に罪は無い。

見えないところに追い払って安心を得る。これが視覚世界がもたらすものなのでしょうか。

排除でなく、受け容れる力を養い、共存していくのが寛容さなのではないのかな。

古事記を読むと、そう思う。


この前の雨の日、運転をしていると

おじいさんが、杖をついて傘もささずに歩いていた。

杖をついている人は、傘をもてない。

両方の手がふさがると、危ないから。

歳をとることは大変なのです。

なので、車を停めて、

「乗りませんか?」と声をかけた。

もちろん、断られる。

人の手を煩わすより、雨に濡れる方が気が楽なのだと思う。

日本人の年配の男性はプライドが高い。

それはそれでいい。

私が、声をかけずにはいられないだけ。黙って見過ごせない。

夏には、荷物持ってるおばあさんを乗せた。

そう言えば真夏には

道端にしゃがんでる子もいて、「気分悪い?」と声をかけると「うん」と。

顔をみたら、顔面蒼白、すごい汗。熱中症だ。

本当に困ってる人は声を上げない。

だから、余計なお世話であってもなんでも声かける。

若い時は、酔っ払って寝てる人にも声かけてた。

生きていて大丈夫なら、それでいい。


意にそぐわぬモノは排除しなければいけないような社会が今築かれている。

本当にそれでいいのか、私は疑問に思う。