ふるさとの生活



ふるさとの生活 (講談社学術文庫)

ふるさとの生活 (講談社学術文庫)


「山をやくぞう、山をやくぞう、山の神も大蛇どのも、ごめんなされ、ごめんなされ、

はう虫ははうてゆけ、とぶ虫はとんでいね、ひっこむ虫はひっこめ、

あぶらむけそうけ、あぶらむけ」ととなえたとあります。

昔の焼き畑の様子で、

「山の神も大蛇どのも、ごめんなされ」とは、いいですね。

古事記を読むと、

神(天皇のご先祖様)には、蛇やワニがいました。

へぇ〜と思ってましたが、

動物は、人間より神聖なものとして考えられたようです。

蛇は特に敬われていたのでしょうね。

そう言えば、因幡の白兎にもワニ出てきますけど、

そんなに日本の古代からワニがいたのか?と思って調べたら、サメのことのようで、

だからワニ(鰐)じゃなくて、『わに』ですね。私の頭の中ではクロコダイルでしたよ。


昔は、土地を開いてゆく場合(開墾)、山を焼いた。

木を1本づつ切り倒すより、早い。

それで『畑』が『火』の『田』というのがわかりました。

土地がやせたら、また木を植えて山に戻す。それをくり返す。

焼かない方のハタケは『白』に『田』で『畠』。


日曜日がお休みになったのは、明治以降。

これはキリスト教世界に合わせたということに思います。

開国と共に、日本の世の中が『世界経済』中心で動き始めたということなのかな?

ユダヤ教安息日は土曜日、イスラム教は金曜日)

西暦だって、キリストが生まれた年で、キリスト国家が中心で使っていて、

本当は私とキリストはなんの関係もないのに、不思議なものです。

それまでの日本は、1日と15日がお休みが多かったようです。

その他にも村で決まったお休みがけっこうあるようで、

太鼓がなったら、その日は畑(田)に出てはいけない。

など、情緒があっていいな。

それでも、家の中で、草履、わらじ、蓑、縄、むしろ、こも、

など作業はいくらでもあって、ゴロゴロ寝ていたわけでもないでしょうけど。

お休みは、元々神のお祭りの日で『神に慎む』という意味で、山や田や畑に出てはいけなかった。

(これはユダヤ教安息日には馬や牛も働いてはいけないというのと似てる)

暦の無い頃は、満月にお祭りをしたので、満月(十五夜)がお休み、

なので15日がお休みというように、明かりの無い時代には月と共に生活してたことがうかがわれます。

南の島では、満月の光だけで本が読めるというのですから、貴重な夜です。

月を中心に生活をしていたのが、開国と共に産業(貨幣経済)で生きるようになった。

それにしても、

昔は神に対して様々な祭り、行事が多い。

それが日々の『ケジメ』であって、村や家族の決まりごとでもあって、

科学によって、信心がなくなり、神に祈りなどしてもしなくても世の中変わらないってことになって、

行事も損なわれ、ケジメも無くなり、ぐっちゃぐちゃになってしまったか。


歴史の教科書は、

ごく一部の目立った人で、

本当の暮らしは、当たり前過ぎて歴史の1ページには刻まれていない。

この著者の宮本常一は、村を歩き、話を聞き、昔の生活を調べていった。

歴史に刻まれない1ページを紐解いていくのは、本を読めば済むことでない。

この本は、食事、住まい、洋服、暮らしぶりがどのように変化していったかが、書かれています。

地味ですが、ほとんどの人の生活は地味で、その地味の中で楽しみを感じ

慎ましく過ごしてきました。


なんだか、

こんなのを読んでいると

環境問題とは、

何かをすることでなく、

何もしなければいいような気がします。

満月の日に、電気、ガス使わずに、家の中でひっそり過ごす。

時間がもったいないとか、

仕事がとか、

何かに追われて過ごすうちに、

やらなくていいことまでやり過ぎてしまったように思います。

司馬遼太郎が、日本人は常に『戦闘態勢』というのがわかります。

何もしないということを堕落ととるのでなく、

そこにも意味を感じないといけないのかもしれません。

虫や動物は昼間行動するもの、夜だけ行動するものはいても、

24時間働く者はいません。

領分を侵してはならないように思います。

私たちは虫や動物や未来の人のエネルギーや未来の人の仕事まで、

苦情のこないとこから全部搾取してしまったように思います。

ユダヤ教では、安息日は救急車さえ石を投げられることもあるようなので、

本気で何もしちゃいけない日なのでしょうね。


あと100年もすれば原油は枯れ果てると言われてます。

原子力には、頼らない。

とすると、

100年後はどのように生きていくのでしょうか?

100年後の人たちは、100年前の私たちをどう考えるのでしょうか。

遊ぶ為にエネルギーを消費し、

いや、いくら今私たちが節約したところで、

中国13億人がこれからますます消費すれば、私たちの節約など多分意味など無いでしょうけど。

今は、まず新しいエネルギーの模索をなんとかしなければ・・・・・

もしくは、未来の人間のことは未来の人間に任せるか・・・・・

そもそも、

危なくないエネルギーなどあるのだろうか。

石炭炭鉱、石油コンビナート、天然ガスにしろ、

100%の安全性などないが、生きていくには何かしらは

覚悟しなければならないということに思う。


政治が、良い社会を作るものならば、

まず、どのような社会が良い社会なのか、

人の生き方を考えなければ、国の進む方向が定まらないように思います。

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