アラビアンナイトを楽しむために



アラビアンナイトを楽しむために (新潮文庫)

アラビアンナイトを楽しむために (新潮文庫)

阿刀田高の『コーランを知ってますか?』を購入した時に、ついでに(?)この本も購入。

アラブの小説を他に知らないし。

「アブラカタブラ〜」これはアラビア語

とにかくアラブといったら、アラビアンナイトでしょ☆と思った。

ところが、

昨日の『ユダヤ・キリスト・イスラム集中講座』の中で、

イスラムの人が、

アラビアンナイトは、アラブでは評価が低いです。」と。

へっ?!

「アラブの文学は詩です。物語は誰でも書けますが、詩は書けません。」

と、

どうやら詩と物語では、格がまったく違うようです。

なるほどなー

日本の文学は俳句です!みたいなもんかな。

そう言えば、コーランは歌(詩)で、

言葉の響きを大事にしている。だから翻訳して欲しくないと言ってたこと思い出した。


アラブの詩と言われて、唯一思い浮かぶのが

ハリールジブラン『預言者

これは、美智子様レバノン大統領からプレゼントされ、

読んで感動した美智子様神谷美恵子にプレゼントしたという話がある。

で、これがアラブの『詩』といわれるものかはわからないけれど、アマゾンで注文してみました。

(一部抜粋)


あなたがたの子どもたちは

あなたがたのものではない。

彼らはいのちそのものの

あこがれの息子や娘である。

彼らはあなたがたを通して生まれてくるけれども

あなたがたから生じたものではない、

彼らはあなたがたと共にあるけれども

あなたがたの所有物ではない。

あなたがたは彼らに愛情を与えうるが、

あなたがたの考えを与えることはできない、

なぜなら彼らは自分自身の考えを持っているから。

あなたがたは彼らのからだを宿すことはできるが

彼らの魂を宿すことはできない、

なぜなら彼らの魂は明日の家に住んでおり、

あなたがたはその家を夢にさえ訪れられないから。

あなたがたは彼らのようになろうと努めうるが、

彼らに自分のようにならせようとしてはならない。

なぜなら命はうしろへ退くことはなく

いつまでも昨日のところに

うろうろ ぐずぐず してはいないのだ。

あなたがたは弓のようなもの、

その弓からあなたがたの子どもたちは

生きた矢のように射られて、前へ放たれる。

射る者は永遠の道の上に的をみさだめて

力いっぱいあなたがたの身をしなわせ

その矢が速く遠くとび行くように力をつくす。

射る者の手によって

身をしなわせられるのをよろこびなさい。

射る者はとび行く矢を愛するのと同じように

じっとしている弓をも愛しているのだから。


預言者 The Prophet

預言者 The Prophet

ところで・・・・・・・

素朴な疑問もった。

アラビアンナイト千夜一夜物語)を知らないけど、

アラビアンナイトとは、そのまま読めないものなのかな。

読むための書無しでは、歯がたたない難書なのかな。

ざっと調べたところ、


妻の不貞を見て女性不信となったシャフリヤール王が、国の若い女性と一夜を過ごしては殺していたのを止めさせる為、

大臣の娘シャハラザードが自ら王の元に嫁ぐ。

そしてシャハラザードは千夜に渡って毎夜王に話をしては気を紛らわさせ、終に殺すのを止めさせたという物語が主軸となっている。

話が佳境に入った所で「続きはまた明日」とシャハラザードが打ち切る為、

王は次の話が聞きたくて別の女性に伽をさせるのを思い留まり、それが千夜続いたという。

お〜なるほど!

その語った話の中に、

アリババと40人の盗賊やアラジンの魔法ランプやシンドバットの冒険などがあるわけね。

そのくらいなら、手引書無しで読めそうなものだけど?

と、思ったら

1001夜分だから長いんだな。

そして残念ながら、あまり面白くない話しやら、意味の無い話しやら、物語自体稚拙らしい。

阿刀田高は、そのやたら長かったり、つまらなかったりする中から、面白い話だけを選んで、

解説も交えながら、語ってくれてます。


それが、読みだしたら

うひゃひゃ♪と思うほど面白い。

イメージ的には、ショートショートの世界。

あれ?阿刀田はアラビアンナイトを『冗長な文章』と言ってるのに

私にはショートショートに感じるのですから、んーーー阿刀田マジック☆面白い。

物語が盛り上がってきたところで、

「ところで・・・」と突然阿刀田が解説を始める。

これって、シャハラザードが王様に「この続きはまた明日〜♪」と、じらす手法と一緒。

その解説が、また丸っきり違う引き出しを開けてきて、

(この人いったい何を話し出すのかしら?)と思うのですが、それがちゃんと最後にはオチに繋がる。

アラビアンナイトには「だからなんなの?」と、オチが無い話もかなりあるようです。

毎日の生活も、1日の終わりにオチがあるわけで無し、眠くなって寝るだけですし、

人生の最期だって、オチもなく、多分淡々と死んで終わるでしょうし、

考えてみれば、オチと言うのは物語の特権ですね。

ある物語には、

「最後の数十行は、私がつけ足しちゃいました♪」と阿刀田。

大爆笑。

アラビアンナイトは古典ですから、今の感覚では、こういうオチの方がいいでしょう♪」と。

確かに、ブラックジョークぽくなって断然いいけど、それ以上にこういう遊び心に笑わせてもらいました。

ただ、

こういうのは軽くて面白いのだけど、こういうのに慣れてしまうと、

本物が読めなくなるので、要注意です。

物語の内容は、王様や王女、美男美女ばかり出てきて、まぐわってばかりです(笑)

あれ?!イスラム教は、性に関して厳しいはずなのにね(笑)

厳しいからフラストレーション溜まって、こういうとこで発散するようになるのかと。

だから、アラブではアラビアンナイトの評価が低いんだ!

イスラムの戒律とこの物語、言ってることとやってることが違いすぎるもの。

まぁ源氏物語もまぐわってばかりですけど(笑)

ギリシャ神話も面白いけど、アラビアンナイトも面白い。


イスラム教の間では、生きるために盗みを働くことは大目にみられていたらしい。

そだよね。。。。。

1に食べる

2に道徳

だと思う。

大目という曖昧さがいい。

これはきっと「生きるためならアラーの神もきっとお許し下さるだろう」の考えで、

日本人は、法律が基準だから、全ていいか悪いかで、こういう曖昧さは日本人の感性だと無理そう。

イスラムの情もいいもんだなー。

曖昧さは良い方に考えれば、情が優先されて、

悪く考えると、いい加減ってことになって、日本人の大好きな平等と相反する。

平等も1つの思想で、そこに捉われるから生きずらい面もあるのだと思いました。

他国と比較しないと、なかなか日本の国というものが見えてこないものですね。