日本人とユダヤ人
人は失ったものや、欠けたものはハッキリ見えても
初めからもっていないものを意識するのは難しい。
日本人の大きな特徴の一つは牧畜生活をしなかったこと、遊牧民と全然接触しなかったこと。
従って遊牧民的思考と牧畜民的行き方が全く欠如していることである。
この国(遊牧民の国)では「人も獣も草も木も、大地から出て大地に帰り」大自然は文字通り動かない。
時の経過に乗って自分も同じように過ぎて行く。
こういう世界では「永遠とは今」であり「千年も一瞬も共に神の時」である。
従って清少納言は現れない。
聖書には「待つ」という言葉があるが、日本人にとってこれは「まだか、まだか、まだか」といらいらしながら待つこと
(すなわち、期待の成就と、迫り来るクローノスの首を二つながら絶えず意識していること)だが、
遊牧民にとっては、時の流れに乗っている状態に過ぎないのである。
時と共に流れ行く自分
それはリッチーブラックモアのいう吟遊詩人であったり、
シェークスピアの十ニ夜の中の道化であったり、
そんな姿を思い浮かべる。
時という観念の中で生きるのでなく、自然と同化し生きる人々。
日本人はめまぐるしく変わる四季の中で、時を追いかけ、時に追われ農耕民族として生きてきた。
邑の中での横一列の共同作業として営むことが大切で、周囲との和、
そして勤勉でなければ、生きていけない何千年を積み上げてきた。
遊牧民たちは、自分の羊や馬や牛の赴くままに歩みを進め、
積極的に働いても家畜の数が急増するわけもなく、勤勉さが無意味な中で生きてきた。
隣の足並みに揃えるということの無い世界、ノロイことが無能でない世界。
いいとか、悪いとか、
その風土で長年培われ、育まれてきた民族の文明であって、人間性という絶対なものなどない。
私も遊牧民の『時の流れ』は想像は出来ても実感としてもてないのだと思う。
でも
草原の中で風に吹かれ、あの道化の歌を聴きながら過ごす時間に憧れてしまう。
自分も流れゆく雲になり、風になり、そのまま空気に溶け込んでいくような感覚、
そんなものに憧れるのは、やはり隣の芝生なのかな。