モーツァルト

「−構想は、宛(あたか)も奔流の様に、実に鮮やかに心の中に姿を現します。

然し、それが何処から来るのか、どうして現れるのか私には判らないし、

私とてもこれに一指も触れることは出来ません。」

「そして、それは、たとえどんなに長いものであろうとも、私の頭の中で実際に殆ど完成される。

私は、丁度美しい一幅の絵、或いは麗しい人でも見る様に、心のうちで、一目でそれを見渡します。」

「まるで凡(すべ)てのものが皆一緒になって聞こえるのです。大したご馳走ですよ。

美しい夢でも見てる様に、凡ての発見や構成が、想像のうちで行われるのです。」

「−いったん、こうして出来上がって了うと、もう容易に私は忘れませぬ、という事こそ神様が私に賜った

最上の才能でしょう。」  (モーツァルト・無常ということ 小林秀雄より)

このモーツァルトのことばでわかるのは

彼は曲を作っていない。

心に浮かぶ荘厳な絵巻を、後から楽譜に書き写すだけ。

モーツァルトの楽譜にはあまり書き直しがない。

心に浮かんだものは、すでに凡て出来上がった完成品。凡ての楽器がすでに演奏さえ始めてる。

こうなるともう天才というより、奇跡と思う。

その奇跡がモーツァルトにもたらしたものは、

他人の心に配慮が出来ないという悲劇。

彼のことばは人を傷つける。

周りはそんなモーツァルトを理解しない。

モーツァルトは、ことばで通じないもどかしさをなおさら音楽に凝縮させて表現する。

モーツァルトのシンフォニー40番第一楽章は、そんな彼をそのまま表していると思う。

冒頭からの果てしないほどの「タリラ〜タリラ〜」の繰り返しは、

私には「ねぇー聞いて!聞いて!」というモーツァルトの声に聴こえる。

時には子供が母親に甘えるように、

時には男が恋人に甘えるように、

それは

穏やかな時も、

憎憎しげな時も、

英雄的な時も、

果てしない夜の長さにむせび泣く時も、

荒れ狂う嵐の中でも、彼は幾度も悲痛に叫ぶ。「ねぇ聞いて!聞いて!」

荘厳な曲なのに、この曲はモーツァルトの哀しみ溢れてる。

あまりに可哀相で抱きしめてあげたいのに、

第4章までいくと、

「だって自分はモーツァルト!ことばなんていらない!」と猛烈にアピールしてくる。

私はそこで跳ね回るモーツァルトを追いかけてうちにブラックホールに落ちてしまう。

?!

モーツァルトはいたずらっ子の顔で笑う「アハン。ねっ!いい感じでしょ?」

うんうん、参りましたあせる