愚かな恋

つくづく、人間はだれかを愛するために生きているように思いますけれども、

だれかを愛することは、愛した瞬間に苦しみが伴う。

これは恋の原則でございます。

愛した瞬間に、それまで感じなかった苦しみを抱え込まなければいけない。

しかし、苦しいから、それでは愛さなければいいかというと、そうは言い切れない。

やはり苦しむとわかっていても誰かを愛し、悩み、失望しの繰り返しが、

人生ではないかと思います。

死ぬときに、誰にも心を許さなかった、

私は本当に清らかに生きたと思って満足して死んでいく人もあるかもしれませんけど、

それよりも、愚かな恋を繰り返し、過ちを繰り返し、しかし、

そのたびに悲しみと同時に愛する喜びも味わうことのできた人生の方が、

より豊かな人生といえるのではないかと私は考えます。<<瀬戸内寂聴と読む源氏物語>>

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愚かな恋(笑)

人から愚かと思われても、その最中は、自分では全然そんな風には思わなくて

でも年月がたつと、

やっぱり愚かだったな・・・

と、

恋が愚かなのではなく、自分の愚かさに気付く。

それでも

「すべてよしアップ」←カミュギリシャ神話の言葉を拝借

と、今は思える。

寂しい夜、孤独な夜、そんな時にしか気付けない美しいもの、

雨うつ音や土のぬくもりや詩の美しさ、それらは私を導いてくれる愚かな恋の賜物。

一口に、源氏物語の訳というけど

谷崎潤一郎大先生が10年かけて谷崎源氏を生み出したと知って、

瀬戸内寂聴が70歳から源氏物語訳を書き始めたことを

今初めて「本当に本当にご苦労様でした。」と心から思う。

この本の中で

『歴史的な自然や建造物は災害や戦災で失われても、物語は失われない。

もし、日本の文化遺産で一つ残るとしたら源氏物語でしょう。』

と、あった。

源氏物語は世界的にも、非常に高い価値を認められているもの。

まだまだ文明の劣っていた日本で

他の国より何百年も早く、なんでこんな立派な長編恋愛小説が書かれたのかな。

井沢元彦は源氏に対する『鎮魂』と言ってるけど。

源氏物語を訳すことが、並大抵なことではないことは

この物語が、中国の漢詩源氏物語以前の日本の和歌などその多くを身につけて、

初めて読み砕くことが可能で、しかも行間に含まれている部分の密度が非常に濃いという。

行間に書かれているということは、

実際には書かれていないわけで、

人によっていかようにも想像出来て、

それを、もっとも紫式部の心に寄せて書くとなると、

これは文才以前に、人の気持ちがわかってしまう・・・

そこが一番肝心に思う。

自らが紫式部になることで、初めて訳せる。

瀬戸内寂聴は文才が取り立てて美しいわけではないけど、とにかくわかりやすい。

そして何より、人の心に入る才能がすごいと思う。

瀬戸内寂聴、この人は子供を置いて、恋人の元に走ったんでしょ・・・?

それは、

源氏物語を訳すという、この人にしか出来ない世紀の大事業を預かってのことだったのではないかと、

今では思える。

置いてきた子供に対して恥ずかしくない生き方、そういう思いが掻き立てているものはあると思う。

自分の母がもし不倫をして離婚するとなったら

私は父と暮らす。

大好きなのは母だけど、その母と別れても父親を選ぶ。

母から捨てられた父を私までが捨てたら、父は生きてはいけないし、かわいそすぎる。

芸術というのは、不幸から生み出された、血であり、命であり。何かを手放さなければ得られないもの。

近代では与謝野晶子谷崎潤一郎円地文子が訳しているけど、それさえ読むのに訳が欲しいくらいだ。

瀬戸内寂聴にしか感じられない源氏物語を日本が必要としている。

源氏物語がこれほど世界でも認められているのに何故関心がないか。

それは、単に先生が読んでないからじゃないかな。

先生が暴走するほど熱くならなきゃ、子供には何も伝わらない。