ダンテの強さ

感覚の話し。

太宰は、女性と1つに溶け合ってしまうのではないかと思う。

私が貴女で、貴女が私。区別が無い。

あくまで感覚の問題。

志賀はいう。

「相手の女性だって、その時をやり過ごせば(心中しなければ)

その後、普通に生きることだって出来るかもしれないのに。」

うん、そうだ。

多分、そうだ。

冷静で正しい。

だけど

太宰には無いんだよ。

自分と相手が隔たれてない。

別個の存在ではない。

それは思考の問題でなく、感情の問題でもない。本当にそういう感覚なのだから

手が死んで、足が死なないわけにはいかないように、

心中は何も不思議ではないのだと思う。

悪気もなんもない。相手という感覚さえ無い。

抱き合って1つに溶け合う感覚が、抱き合っていない時でも続いているのなら、

考えられないことでもない。

勿論、そんなものは錯覚であり、妄想だ。

私から見ればそうなるけど、太宰の心中がどんなことになってるのかは推し量るすべもない。

私が否定したとして、否定できる私はいったい何者か。だから否定もしない。

もちろん太宰から聞いたわけじゃないから、そうかどうかは知らない。

なんでそう思ったかというと

私の辞書には、「他人」の文字がない有様。

この一文を見つけたから。

納得してというよりは歎きに思う。


天才といわれる人は

正気と狂気の中で生きているらしい。

理性と英知と本能がいっしょくたなのだ。精神的にそうなってる。

そこを社会は病気といって否定し抹殺する。

本能を理性で抑えることが出来なければ社会不適合者だ。

それはわかる。

わかるけど、精神的にそのように生まれたものを批難すべきものを私はもっていない。

私のような残念な凡人は、正気の部分しか使って生きてない。だから、のうのうと生きてる。

人間には狂気が無いわけでは無く、凡人には使えない脳の領域なのかもしれない。

それこそが狂気と感じられる人たちが世の中にはいる。

狂気はどっちだ。誰が決めるのか。

アインシュタイン宮澤賢治は、霊の存在も感じていたようだ。

これまた天才にはよくあることらしい。

幻聴、幻覚、そんな中で狂わず、自我をしっかり保って生きていくことは相当困難らしい。

ユングによれば、オカルトも疑問をもたずそのまま受け入れなさいと言ってる。

この世は、なんでも起こりうる、絶対無いはない。

太宰の文章↓

私の一友人が四五日まえ急に死亡したのであるが、そのことに就いて、ほんの少し書いてみる。



私は、この友人を大事に、大事にしていた。



気がひけて、これは言い難い言葉であるが、「風にもあてず」いたわって育てた。



それが、私への一言の言葉もなく、急死した。私は、恥ずかしく思う。



私の愛情の貧しさを恥ずかしく思うのである。



おのれの愛への自惚れを恥ずかしく思うのである。



その友人は、その御両親にさえ、一ことも、言わなかった。



私でさえこんなに恥ずかしいのだから、御両親の恥ずかしさは、くるしさは、どんなであろう。



権威を似て命ずる。死ぬるばかり苦しき時には、の母に語れ。十たび語れ。千たび語れ。

千たび語りても、なお、母は巌の如く不動ならば、――ばかばかしい、そんなことないよ、



何をそんなに気張っているのだ、親子は仲良くしなくちゃいけない、あたりまえの話じゃないか。



人の力の限度を知れ。おのれの力の限度を語れ。



私は、いま、多少、君をごまかしている。他なし、君を死なせたくないからだ。



君、たのむ、死んではならぬ。自ら称して、盲目的愛情。



君が死ねば、君の空席が、いつまでも私の傍に在るだろう。



君が生前、腰かけたままにやわらかく窪みを持ったクッションが、



いつまでも、私の傍に残るだろう。



この人影のない冷い椅子は、永遠に、君の椅子として、空席のままに存続する。



神も、また、この空席をふさいで呉れることができないのである。



ああ、私の愛情は、私の盲目的な虫けらの愛情は、なんということだ、そっくり我執の形である。

男は強くなくてはいけない。

社会は男の女々しさを認めてはくれない。

でも

養老先生いわく、

男は元々が軟弱だから『男らしく』と言って育てる。

女は放っておいたら元気いっぱい育つ。だから『女らしく』と言って育てる。

だったはずが、

何を勘違いしたのか、それが差別とかなんとかで封じられて、

お陰で今の社会では、男がどんどん軟弱になり、女はどんどん強くなってる。

これは生物学的に当たり前だそうだ。

男は元々弱い生き物。

女が守ってあげるべき生き物。

そう出来てる!!!

男が自分ひとりで、しっかり立っていると思ったなら、

相当無理をしてる・・・


ダンテのつよさを持ちたいものだ。否、持たなければならない。君も、私も。



ダンテは、地獄の様々の谷に在る数しれぬ亡者たちを、ただ、見て、とおった。

ダンテ・・・そっか・・・

そうだったんだ・・・

そこなんだ・・・

太宰はそっちサイドの人間(置いていかれる方)だったから、ダンテなんだ・・・

ダンテは強かったんだ・・・私は気付かなかったよ・・・


ダンテは地獄を歩いた。

でも苦しむ知人を見て、ただ通るしかなかった。目の前で起きてる地獄であっても、何も出来ない。

ダンテの師は言う。

何が大事かを知ることだ。



理屈を超えて見ることだ。



何故と思うことは良いが、その時下手に理屈を探さぬことだ。



人が理詰めで行ける道には限りがある。


全てをあるがままに、景色のように見るがいい。映る心を知ることだ。

太宰はダンテの

ただ、見て、とおった。

耐えるしかないこと(時間)が、どれほど苦しいことか、痛すぎるほどわかっていたんだ。

ある日死が訪れ、肉体は滅んでも、

人の心の中では生きている・・・

これもまた、確かなこと。

そしてそれもまた命という。

命は形をかえ、違うエネルギーとなって生き続ける。

残された者は、その命を他のエネルギーにしていかなければいけない。

その灯が消されることは無い。それが不滅の輝き。

そうして命は紡がれていく。

太宰は、ダンテの強さが欲しかった。

他の誰でもないダンテの強さを・・・

他に成す術もないことに耐えうる強さを・・・

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