古典を読んでみましょう
- レバノンに住んでいる夢をみた。
- レバノンであっても、景色が富山なところが私らしい・・・
- でも夢の中でレバノンって・・・
- 中東に思いが行過ぎてるのかな。
- 古典を読んでみましょう (ちくまプリマー新書)/橋本 治
- ¥929
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書店でパラパラめくって「うん。買いです、これは!」と、即購入。
予想に違わず面白かった。
遥か高い所にあるものを、身近なところに引き寄せてくれる。
感謝です。
「古典を読んでみましょう」と言っても、古典ってそんなに簡単じゃないよね。
という話。
読んでもさっぱりわからないものを面白いと思うわけがない。
まずもって、
どこがどうわからないのかもわからない。
じゃー、
ということで、古典のどういうところがわかりにくいかを教えてくれている。
つまづいている問題点を、1つ1つ克服していけばよいのだからね。
わかりずらい原因の1つに、
元々わかりずらいものだから。
というのがある。
明治時代になって、西洋の言葉の影響を受けるようになった。
それは西洋の言葉が論理的でわかりやすかったから。
古典は、元々がわかりにくい。
その例として
『花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに』(小野小町)
和歌とはいうものは、そもそも「論理的になにかを説明するもの」ではないのです。
「和歌でなにかを説明する」というのはもちろん可能ですが、
小野小町はなにも説明していないのです。
「花の色は変わった。私はぼんやりとしていた。雨も降った」と、この三つのことを言っていて、
「この三つの間になにかの因果関係がある」なんてことを一言も言ってはいないのです。
だから、「小野小町はなにかを言っているのかはよく分からない」になるのです。
英語なら「雨が降る」の主語は「IT」です。
「私=I」が主語であるような文章の中にいつの間にか違う主語が入り込んでいるなんてことは
ありません。
でも、小野小町の歌では「I have been rainning(私はずっと雨をしていた)」という
メチャクチャなことになっているのです。
もちろん、日本語ならそれでいいのです。
小野小町のこの歌だって、べつに「私が桜を見ている歌」ではないのですから。
元々論理的でないものを論理的にわかろうとしても歯が立つわけなかった。
そういうわかりにくいものを理解するには、慣れるのがいいという。
そこで、
「そっか!慣れればいいんだ♪」
と、思ってもそこにまた難問が立ちはだかる。
古典と一口に言っても、時代時代で様々なヴァージョンが古典にはある。
だから、実は慣れるということだって、一朝一夕でこなせるようなことではないのでしょうね。
文字も
最初は漢字だけの文章。
そして、かな文字だけの文章。
それから漢字+かなの文章へと。
使い分けとしては、
漢文は堅い物を書くとき。
かな文字はくだけたものを書くとき。
それが、
800年前にはすでに「読書離れ」「本離れ」があって、人々が漢文を読めなくなってしまった。
だから漢字+かな文字というスタイルが生まれた。
日本人が勉強しなくなり、その結果今の日本語が生まれたということ(笑)
意味がわからなければ、わからない。
古典の中でも意味がわかりやすいのは、御伽草子という。
ただ御伽草子は古典というには新しい部類らしいので、
あくまでとっかりりとしての古典。
御伽草子の中の『浦島太郎』の話しを紹介してくれていて、
これがよく知られている浦島太郎とは全然違って目がパチクリ。
読んでみたくなった♪
この本は「古典を読んでみましょう」という本です。
でも古典は難しい。歯が立たない。というのが本音。
その学び方のヒントを与えてくれています。
あとはヒントを頼りに、どう勉強していくか自分で考えていく。
橋本治は古典という敷居の高いものを身近まで引き寄せてくれる。
でもそこから先、この手で実際掴むには、甘くないという覚悟が出来る。
努力の方向性がみえた気がする。