日本人の矜持
古本屋さんでなく、書店でごく最近買ったのにすでにボロボロ。
齋藤孝、中西輝政、曽野綾子、山田太一、佐藤優、五木寛之、ビートたけし、佐藤愛子、阿川弘之。
との対話集。
矜持とは、自信や誇りを持って、堂々と振る舞うこと。
藤原
数学の研究でもっとも重要なのも、美的感受性なんです。
これが鋭いから、日本はあらゆる学芸の中で一番優れているのが文学で、その次が数学なんですね。
日本は江戸時代のころから数学王国になったわけです。
関孝和なんて元禄時代のころに世界で初めて行列式の発見をした。鎖国のもとでですね。
それから庶民までが和算の問題を解いたりして、
解けるとうれしくなって神社に算額なんていうのをつくって掲げたりしていた。
こういう優れた美観が備わっていて、数学が発達していると、その風下にある技術も発達します。
明治時代から一気に日本が近代化を成し遂げたのは、江戸時代にその下地があったからです。
文化的、精神的に大きな容量を国民が持っているということは、本当の底力なんですね。
欧米が日本を植民地にしなかったのも、圧倒的な道徳の高さをはじめとする一人一人の文化的底力を見たからなんです。
そういう意味で、文化度や精神度、すなわち国家の品格を高めることは、
防衛力にもなるし、世界を変えていく力にもなる。
日本では戦後、国民全体が誇りと自信を失い、いまもあまり回復しているとはいえません。
その結果、アメリカから「ワンといえ」といわれれば「ワン」という。
中国から文句をいわれたら謝罪する。
北朝鮮と聞けば、怯えてしまう。
「テポドンの一発やニ発、東京に落とすなら落としてみろ」とさえいえない国になってしまった。
やはり民族に対する誇りと自信がなければ、外交も防衛もうまく展開できないのです。
曽野
人間にとって傷つくことの究極は死ですね。
だから、宗教を教える学校では、かならず生徒に死について考えさせます。
生と死が一体となって人生なのですから、傷つく、不快というものを一切経験させないとしたら、
これはもう人生に学ぶことを放棄しているのと同じことですね。
藤原
日本は言霊幸う国ですが、教育に関してはこれが欠点にもなっている。
というのは、日本人があまりにも美辞麗句に踊らされやすい、ということです。
「生きる力を育む」とかね。生きる力なんてブタにもアメンボにもありますよ(笑)
藤原
子供を傷つけないようにすると、まず忍耐力がいっさい生まれません。
すると、必ず読書離れが進行するでしょう。なぜなら曽野さんが言われたように、
テレビのような受動態の文化と異なり、活字をひとつひとつ追うには、やはりある程度の「我慢」が必要だからです。
曽野
読み書きそろばんの能力は、国家や社会にとってまさしく生命線ですね。
アフリカが貧困から脱却できない理由のひとつは、そこにあります。
私がアフリカ諸国で得た結論から言えば、電気のないところに民主主義国家は成立しません。
じゃあ、電気がくればいいのか、というと、アフリカの最貧国では、
多くの人々が機械を扱うことが出来ない。文字が読めないからです。
識字率が五割をはるかに下回る地域では、医療にしても大変です。
薬を渡して「大人は二錠、子供は一錠よ」と言っても「分からないから、また来週来ます」。
国家を運営しようにも、工場を稼動しようにも、まず名前を書いたプレートを与えて、
それを理解させるところから始めなくては、いかなる管理も成り立たないのです。
山田
例えば、洪水が起こると、人間は非常に無力であることを思い知らされる。
地震が起きて、愛する人が死んだり、住んでいた家が崩壊したりすると、非常に無力感にとらわれる。
結局、生身の人間にとっては、「それ以上行ったら壊れてしまうよ」という極限があると思うんです。
経済グローバリズムは、こういう洪水や地震のような極限状態を、
普通の人々に日常的に強いているのではないか。
グローバリズムは人間をもの凄く壊しているように思いますね。
藤原
私はグローバリズムとか市場経済を徹底的に糾弾しているわけですけれども、
あれももともとはアダムスミスのころから、
それぞれの人間が利潤を最大にするように利己的に働けば社会全体が神の手に導かれて・・・・・。
山田
予定調和ですね。
藤原
予定調和でこの社会がうまく回っていく、と。
しかし、そこにあるのは結局は経済の論理だけなんです。人間の幸福ということはどこにもない。
はっきり言ってしまうと、経済学の前提自体が根本的に間違っている。
山田
考えてみれば私たちは、開かれた人間関係や平等、公平、合理性などを求めている一方で、
他方では「そんなことばかりじゃたまらないよ」と思っていますよね。
それに反するもの、つまり閉じられた人間関係とか、閉鎖的な場所、それから弱さ。
そういうものを、実は僕らはとても必要としているという気がするんです。
藤原
かつて教師は聖職でした。
そして、聖職としての責任をどう果たすかという使命感をもっていたんです。
遡れば江戸時代の寺子屋から、日本は世界でもっとも優れた先端的な教育システムをもっていた。
いま、すべての人が「教育を直せ」といいますが、「どうやって直すか」というところで皆、
暗礁に乗り上げてしまう。
安倍内閣も「教育再生」を唱えていますが、その中身といえば、教育バウチャー制を導入して
親に小学校や中学校を選ぶ権利を与えるとか、大学入学を9月にするとか、
本質とは関係ない話ばかりです。
真に教育再生を考えるには、日本の国柄などを客観的に見詰めたうえでの大局観が必要です。
しかし、この大局観は教養がないと生まれない。
では教養とは何かといえば、一見何の役にも立たないようなもの、文学や芸術、思想、歴史、
科学などです。
旧制高校の人々が引退したのが痛いというのは、彼らがその教養をもっていた最後の世代だからで、
いまは大学教授ですら教養の足りない人が多くなりました。