グレー


最近ADHDという言葉をしばしば見かけるようになって、私もその要素があるんじゃないかと思った。

注意力欠損。多動性。

誰だって、色んな要素を持ってる。

頭痛、鼻水、咳、発熱、関節痛、たかが風邪だっていくらだって症状はあるし、

この中でどれが主要症状なんてものもないし、全部の症状が現れて初めて風邪なわけでもない。

宇宙のすべてはミックスでとても曖昧な存在。

本当は白黒なんてカテゴライズ出来ることは1つもない。

各々が(そうなんじゃないかな)って解釈するのであって、万物に定義はない。

風邪かなって思っても、疲れもあるかもしれないし、ストレスも含まれているかもしれないし、

単純に明確化できることって少ないんじゃないかな。

0か1で成す世界は頭の中の仮想世界で、

でも、現実社会では、0か1で選択しなければいけないことが多い。

社会で生きていくには選ぶ必要があるから選ぶしかない。

もちろん万物は最初はごくシンプルなもので、

そのシンプルなもの同士が複雑に絡み合い、混雑し、宇宙は出来ている。

意識の上でシンプルにすることは可能だけど、本当は万物はグレーなのだと思う。

宇宙は・・・万物は・・・一切が同じだと思う。

すべてがミックスの存在。

1人の人に優しさと残酷さと美しさと醜さとが配合され

というより、強さや優しさがある方向には残酷に働き、醜さが美しさでもあるし、

海は美しくもあり、時には牙をむく、

自然は(勿論人間も)表裏一体のぐちゃぐちゃな要素が独特の個性を醸し出す。

アダムとイブ。

彼等は、知恵の実を食べたことで、自分たちが裸であることを恥ずかしいと知る。

知恵をつけたのも事実だけど、同時に悪知恵もついたのだ。

「蛇にそそのかされたんです。」と。

私はアダムとイブの物語は、宇宙すべてに通じると思っている。

人間、学べば知恵もつくが同時に悪知恵もつく。

大人になって利口になる分、それは悪い方へも利口になり、

勉強すれば、原子爆弾だって作ってしまう。

私は親に「女性としてみっともなくないように。」「大人になって恥ずかしくないように」と、躾けられた。

それは、

『出来ない人はみっともない人。恥ずかしい人。』という他者へのレッテルにも繋がる。

自分が優れていると思うことで、他を見下し、あるいは排他的になってしまうことだってある。

躾が他者に対しての寛容さをなくしてしまう面もある。

親でも学校でも子どもに良いことだけを身につけさせるというのは無理だ。

元々そんなものは存在しない。

醜さも、くだらなさも身に付け、悩み、迷い、苦しみ、

大人になれば何でもわかるのかと思うけど、

結局、理屈だけは言えても、わけのわからないものはわけのわからないままな大人になるだけなのだ。

人間そのものが、そもそもそういう混雑した性質をもっていて、

シンプルや合理的に考えることは可能だし、その方が便利で楽だけれど、

その底には、到底割り切れない複雑で曖昧なものが流れているのが宇宙すべてに共通なんじゃないかな。

だから『絶対』はない。

特に日本人なら『神』という名の元の絶対性の過ちが見えてしまう。

絶対をもってしまうと、それ以外のものへの寛容性を失う。

それがどれだけ悲劇をもたらしているか。

神だけでない。

男女の愛も、親子の愛も。絶対ではない。

親が子どもを愛するのは当たり前で、

でもどうしても子どもを愛せない親がいることも、愛していても育てられないことがあるのも、

認めないとしょうがない。

いいとか悪いとかでなく、あるものはある、と、そのままを受け止めるほかない。

親が子どもを愛する何倍も、子どもは親を無条件に慕うものだと思っている。

子どもがギューっと親にしがみつく姿。親にだけに見せる姿。

でも本当にごく少数、子どものうちから親にまったく愛情を抱けない、

感情自体が欠落してしまっている不幸な子どもというのもいるらしい。

親に全くなつくということがない。かえって敵対心さえ抱く、そんな悲しい障害だってある。

悲しくてもどんなに不幸でも、人間にはどうすることも出来ない現状があることを認めざるおえない。

言葉なんて相対的なもので、

健常者に対しての障害者という言葉があるだけで、

本当は障害者。とひとくくりに出来るようなものではないと思う。

風邪の症状でさえ、頭痛と咳ではまったく違う。

ひとりひとりまったく違う方面の支えが必要であって、

いっしょくたに処方するのでは毒にも薬にもなってないことがあるのではないかと思う。

言葉に惑わされず、肝心なのは実体であって、

相対的なもの(言葉)の括りでは答えなど出ないことがいっぱいある。

人は、

説明のつかないこと、理解を出来ないことを不快に感じるけど、

不快でもなんでも、本当はすべてが解決出来ないものでわりきれるものではない。

社会生活上の0か1であって、本当は0か1かなんてものはない。

だって存在そのものが、0でも1でも無いのだから。

国の領土だって、人間が勝手に言ってるだけで、元々地球は誰のものでもない。

誰にも決める権利などない。

誰のものでもないものを、こっちの国のものだ。とお互い言い合っているだけで、

埒のあくものでもないような感じがする。

世の中はすべて曖昧な存在。

人間が死んで肉体はいくつかの分子に分かれて、また宇宙の一部となる。

一部分は空気となり、一部分は水となり、雲となり、一部は星となり、一部は土となり。

人間一個が他の一個に生まれ変わるわけでなく、

分子それぞれが適材適所、もっとも素朴なはじめの一歩に戻り、それぞれの場所へと向かう。

そうして長い長い年月を経て、また複雑な1個の人間を造りだす。

永遠のリサイクル。

サイクルでなくリサイクル。

生のための死であり、死のための生。

人類同士が争いをやめないのも、

1個の人間の中で細胞同士が変異を起こし、病を生み出すのも

ある意味、同じことに思える。

ミックスな存在だから、合う部分もあれば、衝突する部分もある。

喜びも悲しみも終(つい)えることなく、ただ一切は繰り返されていくもの。

いつか、未来にすべてが解き明かされ1つづつ解決つくのかもしれないけど、

今は、すべてがグレーに思う。

絶対といえるものはどこにも無い。