台湾りす


昨日お散歩中にリス見っけ。

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木の皮をバリバリはがして、食べてる。こんなに食べちゃってる(笑)

見ている間も木の皮がバラバラ落ちてくる。

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見っけというより、台湾リスが増え過ぎていることが問題なのだけど。

この辺りは以前野鳥も多くいたのになー。

外来種によって在来種が食べ物を奪われ、交雑による遺伝子の問題、植物被害。人家への被害もある。

リスが悪いわけじゃない。

外来種による環境問題は、社会のグローバル化を思えば、起こるべくして起こることなのだろうけど、

心構えがないからなー。

オーストラリアの検疫の厳しさは、

まずオーストラリアの大地に飛行機が着陸すると、機内で消毒薬が撒かれる所から始まる。

荷物のチェックも過剰とも思えるほどの警戒をし、厳しい注意を受ける。

麻薬とかではなく、菌に対して。

何故かというと『自然は国の宝物であり国の誇り』にしているからで、

子供の頃からオーストラリアの自然の偉大さ、愛おしさ、を学ばさせられているから、

人間に向けて殺虫剤を撒くことは、自然にとって大切なことなのです。

自然とは命。

たった1つの外来種が生態系を狂わせる恐ろしさをオーストラリア国民は皆心得ている。

なんでそこまで自然を宝物に思っているかというと、

多分、

他に何もない(笑)

歴史も無いし、元はイギリス罪人の流刑地であった。

そんなオーストラリアが誇れるものは大地であり海であり、動植物しかない。

ロシアは大地を宝石と思っている。

それは、

寒くて使えない土地が多いので、使える土地というのは、何よりの宝物なのではないかと思う。

ともかく、

認識は世界共通では無いし、誇りという心構えがあれば、行動も違ってくる。

日本が経済大国として浮かれている間もオーストラリアは自然保護への配慮を頑なに守ってきた。

変えなければいけないのは、法の整備でなく、人の心なのではないかと思う。

他国に迷惑かけることも、迷惑かけられることも、避けられるなら避けたい。

自分たちがどれだけ自分たちの自然を愛し、守ろうとしているか、

今の感じだと、いくら『大切にしています』と言っても口だけな感じが否めない。

排除すべきものは排除する!という必死さが感じられない。

自然とは命であるという認識を子供たちに当たり前のこととして感じられるように

してあげたい。

守らなければいけないものだから守るのでなく、

守りたいものだから守りたい。そう思えるようになったらいいけど、

義務感で縛って、なんとかするものでもないし、なんとかならない。

外来種に在来種が絶滅されられるのも、自然の厳しい掟なのだとは思う。

でも人の手で持ってきてしまったものは、人が手助けしない限り、

人間以外の動植物は、自分1人ではコントロール出来ない。

子供も自分ではコントロール出来ない部分があるから自然に近い。

子供は義務感で育てるのでなく愛情で育てているはず。


さてと、

そんな能書きは置いといて。

読了。

高浜虚子の言いたいことは、この一点に思う。俳句とは、そのままを写生しなさい。

道徳や、観念など、能書きは1つもいらない。

技巧で作れば嫌味がある。

そこにあるもの、そのままを写し出す。

昨日、植物写真家(草撮りじいさん)『埴 沙萠』のドキュメンタリーをTVでみた。

「写真を上手く撮ろうとか、なんていう名前の花だろうとか考えないで、植物そのままを楽しんで欲しい」と言っていた。

そのままを写し出すということは、

主観は持ち込まず、透明なフィルターで、

自分は第三者的になるのだろうか・・・

難しいね。

そのままを見る。子供の目なんだろうなー。

普段、余計なことばかり考えている私は、余計なこと無しにモノを見る目を失っている。

『古池や蛙とび込む水の音 芭蕉

高浜虚子は、

『実際この句のごときはそうたいしたいい句とも考えられないのである』と、前置きした上でこう述べている。


上五字はありのままに「古池や」と置いた。それがすこぶる自分の意に適して、

かく何の巧もなくそのままを詠ずることが、今後俳句の歩むべき正しい道であると悟った。

同時にまた滑稽でも洒落でもなく、かかる閑寂(かんじゃく)の趣こそ俳句の生命であるを悟った。

閑寂趣味とそのままの叙写という事が、この句によって初めて体現されたということが何よりも

芭蕉の満足することであって、自分もこの句を以て初めて悟りを開いたように考えたのであろう。

確かに古池や蛙とび込む水の音は、大家というにしては子供の描写のように分かりやす過ぎる(笑)

でも、高浜虚子のいう『ありのまま』は

余計なことばかり考えながら、こじつけ歩き回っている私には、冷水を浴びせられたかのような、

それこそ・・・・・水みずしさ。

古池や蛙とび込む水の音には、「チャポン・・・」という音から

辺りの静けさ、古池の苔の匂い、水の輪の広がり、水を渡る風、を感じるのみで、

だから何?

ということでは無いのだと思う。

『だから、なんなの?』という理由付けの無い世界。

なんの意味も無くていい。古池に蛙が飛び込んだ、ただそれだけなのだ。

今、朝起きると仏様にお線香とお茶をあげて、私もお茶を飲みながら、そこから庭を眺めている。

30分くらいは、ボーっと眺めている。

そうしたいから、そうしている。何かを考えることもあるし、考えないこともあるし。

下からツンと咲いているシランと上から望むコデマリが、風に揺れもう少しで触れそうで、触れない。

見ているとくすぐったい。

見るのはそのままの目でみても、その心を外に取り出すには、なんらかの邪心が入ってしまう。

そのままを取り出すって難しい。

『だから、なんなの?』の答えがない。そんな目とそんな世界、忘れてたなー。

なんだかとっても眩しく感じられた。