歴史と風土



歴史と風土 (文春文庫)

歴史と風土 (文春文庫)


明治維新というのは志士がえらかったのかといえば、そんな馬鹿な話は無いわけで、

ずうっとあった歴史の原理とか状態とか、一種の日本人的な社会の摂理とか、あるいは機能とかが、

作動していって明治維新が成立し、その後もうまくいくわけで、それは東アジアとは別の国ですね。

こういう見方が出来るのが司馬遼太郎

関が原の戦い中で、島津(薩摩)はまったく動かなかった。

そして、西軍敗戦の決着がついた時、島津は敵軍に向かって退却した。

これが島津の意地というか美学というか、

毛利(長州)にしても関が原以降、蔑ろにされ、

徳川封建時代260年間、薩長のふつふつとした思いが明治維新のエネルギーだった。

その異常なほどの攘夷エネルギーは幕末に収まらず、

時勢の流れと共に日清戦争へ向かい、その勢いのまま太平洋戦争までいってしまった。

関が原にしても明治維新にしても太平洋戦争にしても・・・歴史上の点ではない。

人や風土に宿るエネルギーの蓄積がある。

関が原敗走の折、島津は堺から薩摩へ逃げ帰る船を出してくれた商人に、太平洋戦争後までその恩(米)を

返していたということに、関が原に対する島津の思いの深さを感じます。


中国では、後世にどのように名が残るかを大事にしていて、

日本にはそういう考えはあまりなく、強いて言えば、徳川慶喜だと書いてます。


徳川慶喜があんなに弱々しく、自ら好んで、官軍と称する薩長軍に対して戦わずに

みずからひっくり返ってしまったのは、彼は水戸学の人ですから、水戸イデオロギーから見れば

賊軍になるという後世意識だというべきでしょう。

私が、徳川慶喜という才人政治家に感じている傷みとも憐れみともつかぬ思いは、

つねにその一点にあります。

かれが戊辰のときに本格的に抵抗していれば、日本の近代の出発は、

戦禍と憎悪と外国勢力の侵入によって、凄惨なものになっていたでしょう。

島津は退却するにしても、敵に突っ込んでの敗走に美学があった。

でも慶喜の敗走は、戦地に部下を全員残したまま自分だけ黙って退却しちゃったのだから

あまりにかっこ悪い総大将ということになる。

慶喜だって、貫きたい美学はあったはず。

でも自分個人の美学よりなにより、水戸学に忠実に生きる道しかなかった。

総大将の遁走があの時のベストの選択だったことを思うと、

どんなにかっこうが悪くても貫かなければならない道が慶喜の場合あまりにも傷ましくて、

司馬遼太郎に『書かなければ』と思わせたように思う。


司馬遼太郎の目は、

いたわしいものに向いている。

だから『峠』の河合継之助に目を向けるのも司馬遼太郎らしい。

長岡藩は陽明学を取り入れてたとある。

私は陽明学がわからない。

1度わかりたくて、陽明学の本を読んでみたけど途中で挫折。

ただ、陽明学に感化された大塩平八郎、河合継之助、三島由紀夫の行動が、

まっすぐ過ぎて、道を誤った・・・というだけでは、あまりにも悲しくて、

私には誤まりに思えなくて、立ち止まったままでいる。

司馬遼太郎陽明学についてこのように言っている


これはどうも煮つまってしまった思想であるという気がしましたね。

実に成立することのできない思想であって、おしすすめていけば精神を病んでしまうより他に手のない、

自分の所属している集団を滅亡させてしまうであろう学なんです。

なるほど・・・・・です。

思想や宗教が違うと、何が正しいかが違ってくる。

国を1つの思想で動かそうと思うと、中国のようになってしまう。

1つがどんなに立派なものでも、やはり野党が必要で、

1つ集中では国でも会社でもよくないんだろうなー。


水戸は水戸学、長岡は陽明学

江戸時代は封建という縛られた社会の中で学問が奨励され、

地方色豊かにどこででも学べた。

江戸後期には、諸藩の学問文化が江戸を圧していた。

現代はみんな東京の大学に来てしまう。

司馬遼太郎は、猫も杓子も東京というのでなく、

もっと地方地方の特色を生かして学ぶほうがいいという。

東京と地方のそれぞれの文化価値を生かすべきだと。

もっと地方も力を持つべきだし、もっと意識を高めるべき。

多種多様な文化の価値観と、文化とがあって、社会というのはきらびやかなものになってゆく。

このままでは、薄っぺらな文化しかなくなってしまう。奈良朝に戻ってしまったと。

ハァ・・・・・

なにもかもごもっとも。

風土が生かされなければ、国が澱んでいく気がします・・・・・